残念社

【ざんねんしゃ】

慶応2年(1866年)に起きた第二次長州征伐は、長州軍1万に対して幕府軍15万という圧倒的兵力差で始まった戦いであるが、東西南北の4方向から攻め立てた幕府軍が長州領に一歩も侵入することも出来ず惨敗するという結果に終わった。

西国街道の芸州口から侵攻した幕府軍は、紀州藩主・徳川茂承を総督、宮津藩主で老中の本庄宗秀を総督差添に最大規模の5万の兵力を擁し、征伐軍の主力として国境に迫った。それに対して長州軍は最新鋭の装備を持った2千の兵で迎え撃った。芸州口の戦いは6月14日に始まったが、旧式の装備しかない彦根藩井伊家と高田藩榊原家の幕府軍先鋒が応戦する間もなく瓦解し、長州軍は初日で広島藩内に攻め込む。しかし19日になって紀伊藩を主力とする幕府軍の反撃が本格化し、西国街道の難所である四十八坂を中心に一進一退の攻防戦へと推移する。

そして7月9日、膠着状態となっている四十八坂を通って単騎長州側へ赴こうとする軽装の武士があった。幕府軍として名を連ねる宮津藩の軍監・依田伴蔵である。依田は幕府軍の意向による使者として単独で長州側と交渉するため、敵地に入ろうとしていたのである。しかし街道に向かって銃を構える長州兵は、それを敵兵であると判断して狙撃。撃たれた依田は「残念」と一言絶叫して斃れたという。

間もなく依田が幕府側の使者であることが分かり、長州藩は不手際があったと謝意を示した。さらに近隣の者が丁重に葬り、祠を建てると【残念さん】と称して祀り上げた。明治に入る頃になると、残念さんの祠に祈願すると諸病が治るという噂が流れ、多くの参拝者が訪れる賑わいとなった。その後、大頭神社によって鳥居が建てられ、【残念社】と呼ばれるようになる。現在も境外社として管理されているようである。

なお残念社の近くには、吉田松陰が江戸へ護送される時に腰を掛けたという石が残されている。

<用語解説>
◆依田伴蔵使者の真相
依田伴蔵が使者として長州へ向かった目的は、実は判然としていない。おそらく総督差添であった藩主の本庄宗秀の密命を帯びてのことと推測される。そして宗秀のその後の動きから、使者の目的は「和平交渉」であったと考えるのが妥当である。
宮津藩は依田伴蔵の尽力で軍制改革が進んでほぼ完全な洋式の軍備を有しており、幕府軍の他藩の装備では長州に歯が立たないと理解していた。さらに各藩ごとの思惑から、幕府軍としての意思統一が出来ない、低い士気の中で戦うことも痛感していたと思われ、このまま戦闘を続けることが幕府にとって甚だ不利と認識していた。
そして宗秀は伴蔵が狙撃死して数日後に思わぬ行動に出る。独断で、捕虜となっていた長州藩家老2名を無条件に釈放したのである。その結果、宗秀は老中罷免の上、謹慎の処分となっている。この事実から、本庄宗秀による和平交渉の密使として依田伴蔵が長州へ向かったと考えても良いだろう。

アクセス:広島県廿日市市大野