豊島二百柱社

【としまにひゃくはしらしゃ】

今から約550年前の文明9年(1477年)、現在の江古田地域で大きな合戦があった。扇谷上杉家の家宰・太田道灌と石神井城主・豊島泰経による“江古田原合戦”である。長尾景春の乱に味方した豊島氏が、道灌の拠点である川越城と江戸城の行き来を遮断したため、両者が激突することとなった。この戦いはかなりの激戦となり、寡兵で臨んだ道灌勢が豊島氏の主力を打ち破り、豊島勢は泰経の弟・泰明をはじめ有力な武将が討死する。さらに敗走して石神井城に籠城した泰経は最終的に城を捨てて逃亡し、有力豪族であった豊島氏は完全に没落する。

今でこそ住宅が建ち並び何事もなかったかのような街となっている土地であるが、宅地開発が進められる以前はところどころに“塚”と称するものがあったという。これらは江古田原合戦で討ち死にした豊島氏の武将の遺骸を埋めた塚であると言われ、「豊島塚」と総称されていた。しかし開発の波によってほぼ全てが整地され、跡形もなく消えてしまっている。ただ整地の折に「人骨が出てきた」とか「刀などの武具が出てきた」という記録や噂が残されている。

豊島二百柱社は、この「豊島塚」をまとめて供養する形で建立されたものである(隣にある石碑には昭和49年(1974年)の建てられたとある)。この祠のある公園の名称となっている“丸山塚”もかつてあった「豊島塚」の一つとされており、おそらくこの公園の敷地そのものが塚であった可能性が高い。

この公園の向かい側にあるビルの敷地内には延命地蔵が祀られており、不思議な空間を醸し出している。実はこの地蔵も「豊島塚」にまつわる伝承を持っている。

江古田原合戦が直接のきっかけで滅亡した豊島氏の怨みは凄まじいものであったとされ、それゆえに多くの「豊島塚」が造られ残されてきたが、それらが宅地開発によって徐々に失われていった昭和初期頃の話。この周辺で頻繁に事故や不幸が起こり、また頭痛などの体調不良を訴える住民が増えたため、これは豊島氏の祟りではないかとまことしやかな噂が流れ、これを供養するために建立されたのが延命地蔵であるとされている。

<用語解説>
◆豊島泰経
生没年不詳。現在の東京23区の大半を領有していた名族。伝説では三宝寺池に入水して亡くなったとされるが、史実では落城の際に脱出に成功、その翌年に平塚城で再挙するが再び道灌に蹴散らされ、最終的に武蔵の小机城に逃げ込んでいる。しかし小机城の落城後は行方知れずとなる。

◆太田道灌
1432-1486。扇谷上杉家の家宰として辣腕を振るい、扇谷上杉家の南関東支配を確立させた。特に上の豊島氏との戦いはほぼ独力で敵方を滅亡させる働きをする。しかしその後、これらの活躍に対して主家が怖れを抱き、暗殺という結末を迎えることになる。

◆豊島塚
塚と称されていたものはあらかた宅地や駐車場などに整地され、現在残っているものはないとされる。また学術的な調査もされておらず、実際に討死した将兵の墓であったかも不明なものがある。ただ噂によると、整地の際にリヤカー数台分の人骨が一度に出た塚もあると言われている。

アクセス:東京都中野区沼袋二丁目