西郷隆盛洞窟

【さいごうたかもりどうくつ】

西南戦争が勃発してちょうど半年に当たる、明治10年(1877年)8月15日、延岡市北部の和田越の戦いで敗れた薩摩軍は北に逃れ、長井村に包囲される形となった。翌日、薩摩軍は正式に西郷隆盛の筆による解散令を出し、多くの兵が投降した。しかし残った1000名足らずの者は西郷を担いでなお抵抗を続け、18日早朝には政府軍の防御の薄い可愛岳(えのだけ)を強行突破し、一路鹿児島を目指したのである。

9月1日に鹿児島に入ると、西郷の軍勢は城山を中心に布陣して一時期は市内を制圧するが(一般住民が西郷に協力的であったことも一因)、政府軍はすぐさま城山を包囲してしまい、籠城戦となった。この時既に西郷の勢力は400名を切るまでとなっており、対する政府軍70000人とは比べものになる数ではなかった。包囲を狭める政府軍に対して、19日に河野主一郎と山野田一輔が軍使として政府軍に交渉に行き捕らえられる。今回の挙兵の趣旨を伝えるという名目であったが、実際には西郷の助命嘆願であった。そして22日には西郷自らが「城山決死の檄」を記して、決死の戦いに臨む意を示す。さらに23日、政府軍より釈放された山野田一輔が降伏勧告と西郷の自決勧告を携えるが、それらを全て無視した。

9月24日午前4時。政府軍の総攻撃が始まった。それを合図に、西郷以下40人あまりは最後の戦いをするべく進撃を開始。そして法廷で挙兵の意を伝えるべきと主張して降伏した者を除いて、午前9時には全員が戦死した。

この西南戦争最後の5日間にわたって西郷らが雨風を凌いでいた場所が、西郷隆盛洞窟と呼ばれて現在も残されている。洞窟と言ってもそれほど奥深く広い場所ではなく、彼らの最期がいかに窮したものであったかを推し量ることが出来る。そしてこの洞窟から道なりに進むと、西郷隆盛が銃弾を受けて自害した場所がある。直線にして500mを超える距離である。

<用語解説>
◆西南戦争
明治10年(1877年)に起こった、政府軍と薩摩藩旧士族との内戦。薩軍の首領である西郷隆盛は慎重であったが、私学校幹部の決起を止めることが出来ず、2月15日に蜂起。薩軍は熊本城を囲むが戦況は膠着、3月に田原坂の攻防を経て政府軍が攻勢に転じ、4月には熊本城から撤退。6月以降も人吉・延岡の緒戦で薩軍は敗北する。そして9月に鹿児島の城山の攻防戦となるが、同月24日政府軍総攻撃により西郷が負傷・自刃、他の将兵も戦死して終戦となる。

◆西郷隆盛
1828-1877。号は南洲。明治維新時の功によって、新政府において参議・陸軍大将。征韓論での政治的対立から下野、郷里の鹿児島へ戻り、私学校を設立する。政府による士族階級への待遇悪化に不満を持つ士族の反乱が頻発する中、西南戦争の首領となり、敗戦時に自刃。
しかし直後から不死伝説が流布し、中国大陸へ逃れたとか、明治24年(1891年)に来日したロシアのニコライ皇太子に随行して帰国するのではなどの噂が流れた。また別の噂話として、死の直前に火星の大接近があり、火星と知らない人々はここに陸軍大将の正装をした西郷が見えるとして「西郷星」と称したこともある。

アクセス:鹿児島県鹿児島市城山町