安倍館稲荷神社/貞任宗任神社
【あべたていなりじんじゃ/さだとうむねとうじんじゃ】
俘囚の豪族であった安倍氏と源頼義・義家父子が戦った前九年の役は康平5年(1062年)に終結する。この戦いの最後の激戦地となったのが、安倍氏の北の守りとされた厨川柵であった。ここで当主の安倍貞任は深手を負って絶命、弟の宗任は投降して、安倍一族は滅びた。
この厨川柵の遺跡とされる場所からほど近い場所にあるのが安倍館稲荷神社である。このあたりは安倍館町という町名で、その名の通り安倍氏の館跡であると言い伝えられた土地である。このような地に祀られた稲荷社であるが、伝説によると、祀られているのは安倍貞任の娘であるとされる。この娘は、敵である源義家に恋い焦がれるあまり安倍氏の軍法の機密を漏らしてしまい、父によって生き埋めにされてしまう。この娘が生き埋めになったとされる場所に、後年村人が供養のために社を建てたという。
さらにこの稲荷神社の隣にあるのが貞任宗任神社である。こちらの神社は平成以降にこの地に移設されたものであり、元は民家の庭に個人が建てたものである。北夕顔瀬町に住んでいた斎藤たねよという女性が昭和時代に建立したとされ、鳥居には昭和44年(1969年)にたねよが建主となったことが記されている。なおこの神社は貞任宗任の名が付いているが、実際には前九年の役で戦没した双方の兵の冥福を祈る目的で建てられたものである。

<用語解説>
◆前九年の役
1051-1062。支配地を広げた安倍頼時(貞任・宗任らの父)が受領の徴税を拒否したことから、陸奥国司・藤原登任と戦闘状態となる。事態を重く見た朝廷は、源頼義を陸奥守鎮守府将軍として派遣し、一旦争いは収まった。しかし安倍頼時と源頼義の両者の思惑が交錯し、本格的な戦いとなる。在庁官人の藤原清経(頼時の娘婿)の裏切りによって窮地に立った頼義は安倍氏以外の俘囚に協力を求め、最終的に清原氏の援助を受けて安倍氏を滅ぼすに至る。
◆厨川柵
安倍氏の重要拠点とされる城柵。盛岡市にある天昌寺あたりを中心として、かなり広い範囲に広がっていたと推定され、史跡として指定されているが、実際に明確な遺構は発見されていない。
この地は、後に源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした論功行賞として工藤行光に与えられ、行光が厨川館を築いて統治をおこなった。なお工藤氏は土着して厨川(栗谷川)姓を名乗り、室町期に南部氏家臣に組み込まれていった。
◆安倍貞任
?-1062。安倍頼時の嫡男。天喜5年(1057年)に父が戦死すると家督を継ぎ、源頼義との戦いを継続。最期は戦いで深手を負って捕らえられ、頼義の眼前に運ばれて絶命したとされる。
◆安倍宗任
1032-1108。貞任の弟。厨川の戦いで捕虜となり、京都へ連行、さらに伊予、筑前へ配流となる。筑前国大島で死去。
長男は大島に残ってその後も末裔が統治。三男は松浦氏の娘婿となって存続。末娘は近江佐々木氏に嫁ぎ、佐々木秀義(源平合戦で戦功のあった佐々木四兄弟の父)を生んでいる。
また山口県には宗任を祖先と称する安倍家があり、その末裔が元総理大臣・安倍晋三となる。
◆安倍貞任の娘の伝説
史実として貞任には娘がいなかったとされるが、この安倍館町を始め、各所で“安倍貞任の娘の最期”にまつわる伝説が残されている。有名なところを挙げると
・本宮観音堂(岩手県金ケ崎町)
戦いに敗れた源義家は安倍の館に囚われの身となるが、そこで貞任の娘・白糸姫と恋に落ちる(あるいは義家が誑かしたとも)。姫は父の秘伝の巻物を盗み、義家に安倍軍の弱点を教えて逃がした。怒った貞任は姫を立ったまま生き埋めにし、戦後に義家が姫を憐れんで埋められた場所に観音堂を建てた。
・鶴羽形城(秋田県大仙市)
貞任がこの城に籠もって義家と膠着状態となっていた時、義家が馬で駆ける姿を貞任の娘・貞姫が見初め、夜陰に乗じて義家の許へ忍び込み懇ろとなった。やがて姫の懐妊と相手が義家と知った貞任は、翻意しない姫をやむなく山頂に生き埋めにした。現在山頂には姫神の宮が建つ。
・五所神社(山形県長井市)
貞任がこの地で義家を迎え撃った際、貞任の娘・卯の花姫は義家を見て恋い焦がれた。それを利用して義家は姫から安倍軍の機密を聞きだし、貞任は敗死した。その後義家からの便りが途絶え、騙されたことを知った姫は入水。姫は龍神となり、五所神社に合祀された。
・古瀧大明神(岩手県花巻市)
源氏方に押された安倍軍が厨川柵へと退却していた時。貞任の娘・真砂姫は父の後を追い、滝川に差し掛かった時に自ら川に身を投げて亡くなった。戦後その話を聞いた義家が姫を哀れに思い、姫の霊を瀬織津姫としてこの地に祀った。
アクセス:岩手県盛岡市安倍館町