縫ノ池

【ぬいのいけ】

約0.6ヘクタールの広さを持つ湧水池である。昭和33年(1958年)以降地下水の汲み上げで枯渇したが、平成13年(2001年)になって地下水汲み上げが制限されると共に再び湧水が始まり、現在は飲料に適した湧水と認定され“金妙水”の名で多くの人に親しまれている。

この池の中央部にある小島には弁財天が祀られているが、その来歴は平安時代末期にまで遡る。高倉天皇が病で苦しんでいた折、那智の観音が夢枕に立ち「肥前国の須古の日輪山にある霊水を飲むと治る」というお告げあった。早速取り寄せて飲むと全快したため、天皇の父である後白河院がただちに厳島の弁天を祀るよう命じ、肥前を治めていた平重盛がこの池に祠を建てたのが始まりとされる。

それから年月が経ち、戦国時代。この白石あたりを治めていたのは平井経治であった。経治は狩りを好み、その日も大勢の家来を引き連れて鷹狩りをしていた。すると池に1羽の鴨が悠々と泳いでいる。良い獲物だと経治はここで狩りを始めた。しかしこの池は弁財天が祀られ、池の底には龍宮があると謂われる殺生禁断の地であった。それでも構わず経治は鷹を放つ。

鷹は放たれると一直線に鴨目がけて襲いかかるが、水辺に浮かぶ鴨は微動だにしない。そして鷹が爪を立てるかどうかの瞬間、突然池の水が渦巻きだして、鴨も鷹もあっという間に水中に消えてしまったのである。

大切な鷹を失った経治一行が大騒ぎしているところに、この土地を治める、経治の叔父に当たる縫殿助治綱が通りがかった。話を聞くと、治綱はいきなり池に飛び込んだ。ところがいつまで経っても浮かび上がってこない。経治は船まで使って行方を探すが、姿すら発見できない。そのうちどこかから「祈祷せよ、祈祷せよ」という声が聞こえる。藁にもすがる思いで祈祷を始め、まさにそれが終わろうとする時、水面から鷹が飛び出してきて、さらに治綱も顔を出した。

池の中で何があったのか経治が尋ねると、治綱「池の底には立派な建物があって、美しい姫から音曲や料理などのもてなしを受けた。姫は池の弁財天と名乗り、日頃からの経治の不信心や殺生好きを戒めるために今日はこうやって神仏の力を見せたのだ。経治に心改めるよう申し伝えよ、と言われた。そしてここまで送っていただいたのだ」と言う。

それを聞くと、さしもの経治も恐れおののき、無闇な殺生をおこなうことを止めたという。そしてこの池は、治綱の官名から“縫殿の池”と呼ばれるようになり、それが“縫ノ池”の名となった。今でもこの池は放生池とされ、殺生は固く禁じられている。

なお縫ノ池には他にも伝承が残されており、『肥前風土記』によると“轟の滝(嬉野市嬉野町にある滝、約15km離れている)の水は遠く白石に流れる”とされ、この流れに乗って滝の主である龍神が、縫ノ池の主である弁財天に会いに来たとされる。

<用語解説> 
◆高倉天皇
1161-1181。第80代天皇。在位は1168-1180。

◆平重盛
1139-1179。平清盛の嫡男。内大臣。

◆平井経治
生没年不詳。肥前の豪族・平井氏の当主。有馬晴純の婿として杵島郡に所領を持ち、龍造寺隆信やその家臣であった鍋島直茂と戦う。天正2年(1574年)に、龍造寺軍と戦い、居城の須古城を落とされた際に切腹したとも伝わるが、その後は不明である。

アクセス:佐賀県杵島郡白石町湯崎

福岡

前の記事

紅梅地蔵