御門御墓

【みかどおはか】

平将門の供養塔とされる4基の五輪塔がある。造られたのは鎌倉時代初期。土地に残る伝承では、かつてこの地に将門の居館があり、将門の霊を粗末にすると祟りがあると信じられたために造られたとされる。“御門御墓”という名称は、将門が乱を起こした際に“新皇”と称したところから付けられたものであり、さらに“三門”という地名もそこから派生した物であると言えるだろう。

この辺りは、平将門の乱の頃、平真樹(たいらのまさき)の治める土地であった。将門の妻であった“君の御前”の父であり、将門の同盟者である。当時の風習では通い婚が通例であり、おそらく足繁く通う将門のために館が設けられていたものと推測できる。
この付近には君の御前を祀る后神社があるが、この4基の五輪塔はちょうどその神社と向かいあう形で置かれている。これもこの五輪塔が将門にまつわる伝承を持つものであるとする証左とされている。

<用語解説>
◆平将門
?-940。親族との土地争いから、朝廷に対して反旗を翻して「新皇」を名乗り、関東一円を一時的に支配した。朝敵として討ち取られるものの、関東一帯の守護神として崇敬を受ける。

◆平真樹
生没年不詳。常陸国の土豪。平の姓ではあるが、桓武平氏であるかは未詳。隣接する源護と土地を巡って争い、その加勢に平将門を頼ったとされる。あるいは源護の3人の息子が真樹の娘(君の御前)に懸想したために、将門が3人を殺したともされる。いずれにせよ、平将門が関東で乱を起こすきっかけとなる事件に深く関わる人物である。

アクセス:茨城県桜川市大国玉三門