浦島神社
【うらしまじんじゃ】
尾道にある浦島神社は、近くを海に流れていく藤井川があるものの、海岸線からは3km以上離れた山の中にある。祭神は浦島大明神であり、創建にまつわる2つの伝承があるが、いずれも浦島太郎伝説、特に『日本書紀』や『丹後国風土記』にある“瑞江の浦嶋子”の記述がモチーフとなっていることは間違いない。
神社境内にある由来書によると、備後国の浦島の領主であった水ノ江左衛門には一子があり、名を成延といった。ある日、成延は金亀を助け、その帰路に龍宮城に案内された。そこで数年暮らした後に里に戻ったが、既に長い年月が経って見知った者はおらず、結局龍宮より持ち帰ってきた弁財天像を土地の者に託して何処ともなく去ったという。その後、その噂が時の天皇の耳に届き、天長2年(825年)に勅命により浦島大明神を弁財天像と共に祀る小祠が建てられたが。これが現在の浦島神社の始まりである。これは、淳和天皇の勅によって丹後国の浦嶋子に筒川大明神の名が与えられ、宇良神社が始まったのと同じ年になる。
さらに承和3年(836年)に利元阿闍梨によって浦島寺が建立されたが、南北朝の動乱期に消失。さらに時を経て、古老らが7日続けて霊夢を見たことから宝暦10年(1760年)に祠が再建され、昭和49年(1974年)に区画整理のため現在に移転したという経緯を辿っている。
もう1つの伝承は、錮の里に住んでいた島子という男が主人公となる。島子は花小松を玉の浦(現・尾道港付近)に運んで生計を立てていたが、毎日一枝を海に投げ入れて龍神への手向けとしていた。ある日いつものように投げ入れると、鰐(鮫)が現れて龍宮城へ連れて行き、そこで龍神の娘と結婚した。そして数年が経ったところで、島子は里に戻りたいと言い、玉手箱を持って故郷に戻った。しかし地上では既に数百年の時が経っており、大昔に里の若い者が鰐に海へ連れ去られたという言い伝えが残っていることを知る。絶望した島子はかつて自分の家があった辺りに行き、巨岩にもたれかかって玉手箱を開けてそのまま死んでしまったという。
アクセス:広島県尾道市美ノ郷町三成