寝太郎荒神社
【ねたろうあらじんじゃ】
山陽新幹線厚狭駅のすぐ西隣の区画は、いまだ開発途上の感がする土地であるが、そこに小さな石の祠が祀られている。これが寝太郎荒神社である。この祠に祀られているのが“厚狭の寝太郎”。地元では偉人として知られた伝説的人物であり、全国的にも「三年寝太郎」の物語の主人公として知られている。
室町時代の終わり頃、この辺りを治める庄屋には太郎という名の息子がいたが、とにかく怠け者で三年三月の間寝て暮らしていた。
ところがある日、むくりと起き上がるといきなり父親の庄屋に「千石船を造ってくれ」と言い出した。何を考えているのか分からないが、とにかく自分で何かをしようとし出したので、庄屋は喜んで新しい千石船を造った。
するとさらに太郎は「作れるだけの草鞋が欲しい」と言い出した。庄屋は全く見当がつかないが、とにかく息子がやりたいと言い出したことが嬉しくて、早速山のように草鞋を用意した。
太郎はさらに8人ほどの有能な船子を用意して欲しいと言いだし、それが集まると何も言わないまま、千石船に草鞋を積んで港を出てしまった。40日ほどして船が戻ってきたが、積まれていたのは泥まみれの使い古しの草鞋だけ。さすがの父親も呆れて物が言えなかったが、太郎はさらに大きな桶を8つばかり用意して欲しいと言い出したので、半ば諦めて桶を造らせた。
太郎は桶に一杯水を張ると、そこに持ち帰った汚い草鞋を次々投げ込んだ。そして1日経って上澄みを捨てていくと、桶の底にはキラキラ光る砂金が溜まっていたのである。太郎が草鞋を持っていった先は、金山のある佐渡島。そこで金山で働く者に「草鞋をタダで換えてやる」と言って、砂金を含む土の上を歩き倒した草鞋を集めたのである。
さらに太郎はその砂金を元手にして、川に堰を造って水路を整備、湿地帯だった村一帯を美田に変えたのである。これが三年三月思案して策だったのである。
この“厚狭の寝太郎”とおぼしき人物の存在が記録に登場するのは、天保13年(1842年)に長州藩の編纂によって成立した『防長風土注進案』である。おそらくこの一帯が灌漑水路の整備で広大な田となっているのは事実であるが、それを推進した人物の名を出すことを藩として差し控えたのではないかと推測できる。地元では、具体的な人物として大内氏家臣の平賀清恒を挙げている。
<用語解説>
◆「三年寝太郎」の物語
“寝太郎”という名前は『防長風土注進案』にも記載されており、厚狭川から水を引いて灌漑に成功した旨が書かれている。明治時代以降、この記録が厚狭地方における郷土の偉人の伝説として流布し、さらに“三年三月寝ている庄屋の息子”や“知恵を使って佐渡の金を集めて資金とした”要素が加えられ、物語となっていったものと推測できる。そしてこの物語が全国に広がるきっかけになったのが、昭和28年(1953年)に萩出身の岡不可止が朝日新聞に寄稿した紹介文であるとされる。
◆平賀清恒
1523-1610?。父は信濃国佐久地方の領主であった平賀源心とされる。父が甲斐の武田信玄(当時は晴信)によって討ち滅ぼされたため、大内家の重臣である冷泉隆豊の夫人となっていた姉を頼って大内家臣となったとされる。その後大寧寺の変(1551年)の際に帰農し、干害に苦しむ農民のために灌漑工事を進めたという。
アクセス:山口県山陽小野田市桜