蒙古塚

【もうこづか】

文永11年(1274年)10月20日、対馬と壱岐を攻め尽くした元と高麗の連合軍が博多に来襲した。世に言う元寇である。時の鎌倉幕府は西国の御家人を中心に敵軍を迎え撃つが、従来の武士同士の戦い方とは異なる戦法に苦戦し、多くの御家人が討たれた。ところが、その夜には連合軍は船に戻って撤退する。そしてそれに追い打ちを掛けるように玄界灘は暴風雨となり、多くの船が沈没してしまったのである。

『八幡愚童訓』によると、翌日、志賀島に元軍の船が座礁しており、投降してきた兵を生け捕りにしてその首を刎ねたという。その数は約220名に及んだとされる(ここで打ち首になった捕虜は120名とも)。このときの処刑の場となった所に蒙古塚が立てられている。

この供養塚ができたのは昭和3年(1928年)、日中友好として造られたものである。供養塔の文字は当時の首相であった田中義一によるもの、また満州の軍閥であった張作霖も賛を送っている。この供養塔は平成17年(2005年)の地震で倒壊、2年後に再建されている。

<用語解説>
◆『八幡愚童訓』
鎌倉中期から後期に掛けて成立した、八幡神の霊験を集めた書物。筥崎八幡宮の奇瑞や神威によって元を撃退したという記述を伴って、2回にわたる元寇の戦闘の経緯や様子を記した史料として有名。

◆田中義一
1864-1929。陸軍軍人から政治家へ転身。昭和2年(1927年)に総理大臣を拝命する。しかし2年後に昭和天皇より叱責を受けて総辞職する。原因は張作霖爆殺事件に絡む対応の曖昧さであった。総辞職後3ヶ月で狭心症で急死(妾宅で急死したため腹上死の疑いもあった)。

◆張作霖
1875-1928。馬賊から身を起こし、日本の庇護の下で勢力を伸ばし、中華民国成立後には奉天を拠点ととする軍閥として政争を繰り返す。しかし蒋介石の北伐によって勢力を失って孤立化。最期は関東軍によって乗車の列車が爆破され死亡。蒙古塚供養塔の除幕から3ヶ月後のことである。

アクセス:福岡県福岡市東区志賀島

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