比留女地蔵
【ひるめじぞう】
天正13年(1585年)6月、羽柴秀吉は四国攻めを開始、わずか1月あまりで土佐の長宗我部元親を降伏させた。この時伊予方面の攻略にあたったのが毛利家で、小早川隆景を大将とする約3万の軍勢であった。菊間を治めていたのは国守・河野氏の一門である池原通成であったが、居城の高仙山城も200ばかりの兵では守り切れず、瞬く間に落城した。その時に運命を共にしたのが黒岩城の渡部内蔵進であった。
内蔵進の姉・タカ姫は落城に際し、近くの高田の地に一人退去して某家に身を寄せた。小領主の姉という身分に加え、見目麗しい容姿、高潔で信心深い性格で土地の者から慕われた存在であり、戦後もこの地に留まり暮らし続けたという。
ところがいつの頃からか、タカ姫は腰気の患いに悩まされていた。そこで路傍の地蔵に祈願したところ病が癒えたため、喜んだ姫は経典百巻を写経したものを石櫃に納めた。その後、病気平癒の噂を聞いた村人らが多数この地蔵を参拝するようになった。そしてお堂を建て、比留女地蔵(おそらく“日女=姫地蔵”の転訛)と名付けて祀ったのである。
腰気の平癒から始まったことから、婦人病や性病、あるいは夜尿症など下の病気にもご利益があるとされる。そして祈願成就のあかつきには男根をかたどった物を奉納する慣わしが残る。実際堂内にはそれらが多く奉納されており、今でも根強く信仰されていることが分かる。
<用語解説>
◆渡部内蔵進
生没年不明。黒岩城城主。現在、菊間町河之内に渡部内蔵進を祭神として祀る渡部神社がある。その由来によると、祖を摂津源氏の渡辺綱としており、経緯は不明であるが、天正時代には伊予国のこの一帯に一族が土着していたようである。
アクセス:愛媛県今治市菊間町高田