六所神社
【ろくしょじんじゃ】
松平宗家初代の松平親氏が、永和3年(1377年)に六所山の山頂に陸奥国の鹽竈六所明神を勧請したのが始まりとされる。その後も5代・松平長親が下宮を地蔵堂の地に移設するなど、松平・徳川家の庇護を受けている。祭神は猿田彦神、事勝国勝長狹神(塩椎神)などである。
文政8年(1825年)8月のこと。
下宮に新たに舞台が設けられ、祭礼の踊りの稽古初日。村の若い衆が真新しい舞台で稽古を終えようとしている時、急に生暖かい風を吹き始め、舞台の天井や壁から白くてふわふわしたした糸屑のようなものが漂いだした。最初は気にも留めなかったが、その数が異様に多くなってくると、若い衆も気味が悪くなって、その日は稽古も切り上げてそのまま家に帰っていった。
翌朝、村方の家を訪れて昨夜の異変を伝えると、村方らは狐狸にたぶらかされたのだろうと言う。そこで硝煙や鉄砲を用意して、悪さをしたら懲らしめてやろうと夜を待った。
緊張しながらしばらく夜稽古をしていると、突然大きな物音がした。前触れもなく舞台に一抱えもあるほどの大きな火の玉が転がり出てきた。肝を潰した若い衆は、これは狐狸の仕業ではなく、神様の祟りじゃないかと騒ぎ立てる。すると政右衛門という者が心当たりがあるとおずおずと言い出した。
「この舞台の壁を塗るのに土をこねていて、使用人の音吉に水を汲んでくるよう言ったんだが、その時に音吉が小便桶を使って水を持ってきて……罰が当たると怒ったんだが、その水でそのまま土をこねて塗ってしまった」
このままではいけないと、村の者は宝剣を捧げて祟りを鎮めようと、神社の宝剣を舞台の真ん中に置いて、3日目の夜が来るのを待つことにした。
夜半を過ぎても怪異は起こらない。村人が安堵したその時、六所山の方から音がしているのに気が付いた。それは何者かがこちらに一直線に向かって駆けてくる足音であった。
いきなりそれは舞台の袖からぬっと顔を突き出してきた。両眼を爛々と光らせ、口は耳まで裂けんばかりに大きく開かれている。そして怒りのために紅潮した顔色と高く尖った鼻が、天狗を思い起こさせた。
右手に榊、左手に百目蝋燭を持ったそれは、ゆっくりと舞台の中央に移動してきた。一丈もあろうかという巨体は、今にも舞台の天井に届きそうであった。その異形の姿に、村人は恐怖のあまりに卒倒し、外へ逃げようと転がり回り、ただひたすら手を合わせるしかなかった。
やがて夜が明け、異形の者はいつしか消え失せ、茫然自失の村人達だけが舞台に残された。これはもはや村人全員が禊ぎをするしかないと決め、大掛かりなお祓いをその日のうちにおこなうと、社に額ずいたのである。それ以降、怪異はぴたりと止んだという。
六所神社の下宮には、現在でも茅葺きの舞台があり、市の文化財に指定されている。ただ現存の建物は明治5年(1872年)に再建されたものであり、怪異の起こった当時のものではないようである。
<用語解説>
◆鹽竈六所明神
現在の鹽竈神社の別称。鹽竈神社の主祭神は塩椎神である。
◆猿田彦神
天孫降臨の際に、道案内をした神。その容姿は「赤ら顔で、鼻が長く、目が鏡のよう」であるとされている。
アクセス:愛知県豊田市坂上町地蔵堂