慶昌院

【けいしょういん】

江戸時代初めの頃の話。

教化のため諸国を巡っていた禅僧・巨山存鯨が当地を訪れた折、寺で一夜を明かそうと立ち寄った。しかし天念寺という名のその寺は久しく人が住んだ形跡はなく、荒れるままになっていた。

何かの縁とそのまま本堂で座禅を組んで夜を明かしていたが、深夜になって急に空気が一変した。何か得体の知れないものが近づいてくる。目を開けると、月明かりに影が一つ。存鯨が名乗ると、形のなかった影がたちまち人の形となった。それなりの身分のある侍のようであった。

その幽鬼は“成田三郎慶昌”と名乗った。源頼朝の家来であったが、曾我兄弟の仇討ち事件に連座したため自害し、寺の裏にある松の木の根元に埋められた。しかし誰も供養する者もなく、しかも寺はいつしか荒れ果てて人もいなくなってしまった。願わくば寺を再興して供養をしていただきたい。そこまで言うと、幽鬼は目の前から消えてしまった。

翌日、存鯨は里の者に事の次第を告げ、自らがこの哀れな侍の菩提を弔うこととして、寺を再興して住職となった。その後、この寺は成田三郎慶昌の名から“天念山 慶昌禅寺”と改称し、曹洞宗の寺院となった。墓苑の一角には、現在も、この成田三郎の戒名である「空忍院殿天念慶昌居士」が刻まれた墓があるという。

<用語解説>
◆慶昌院
弘仁10年(819年)、弘法大師が創建したとされる。創建当初は天念寺という名であったが、上にある逸話より曹洞宗の寺院となる。

◆曾我兄弟の仇討ち
建久4年(1193年)に起こった事件。曾我十郎・五郎兄弟が、父の敵である工藤祐経を富士の巻狩の陣屋で討ち果たした。兄の十郎はその場で討たれるが、弟の五郎は源頼朝の陣屋にまで侵入したところで捕縛、その後祐経遺児の嘆願により処刑された。
寺伝によると“成田三郎”は曾我兄弟の弟と名乗っているが、2人いる弟はそれぞれ“原小次郎”と“律師(出家僧)”と呼ばれており、該当する人物はいない(しかし、両名ともこの仇討ち事件によって直接・間接的に死んでおり、兄弟が連座した事実は間違っていない)。

アクセス:静岡県富士市中里