佐用姫岩
【さようひめいわ】
日本三大悲恋伝説の一つとされる【佐用姫伝説】は唐津市各地にその伝承地が点在している。宣化天皇2年(537年)に、任那・百済両国を新羅の侵攻から守るために朝廷から遣わされた大伴狭手彦(おおともさでひこ)はこの唐津の地で渡海の準備を行っていた。その身の回りの世話をしたのが長者の娘である松浦佐用姫(まつらさよひめ)。やがて二人は恋仲となるが、軍団は出発となり、二人は別れることになる。別れを惜む佐用姫は鏡山から見送っていたが、やがて海へ出ていく船を追い掛けるように山を下り、さらに呼子の加部島まで追いすがったが、ここで船の姿を見失い、7日7晩泣き明かした末に岩と化してしまったという。これが民間に伝わる伝承である。
佐用姫岩は唐津の中心街から少し東に離れた松浦川沿いにある。佐用姫が見送っていたとされる鏡山からは直線距離にして約3キロ、そこそこの遠さである。伝承によると、鏡山から飛ぶように駆け下りた佐用姫はこの岩に飛び降り、その時に付けられた足跡が岩の頂上にに残されているという。今では水辺に浮かぶ小島のようになり、遊歩道が設置されて完全に公園化している。当然岩の周囲には柵がされていて、登ることは禁じられているようで、問題の窪みを確認することは出来ない状態である。
ちなみにこの松浦佐用姫の伝説は古くより知られたものであり、『万葉集』にも姫にちなんだ歌が山上憶良によって詠まれている。
行く船を 振り留めかね 如何ばかり 恋しかりけむ 松浦佐用姫
まつら潟 佐用姫の子が 領巾振りし 山の名のみや 聞きつつおらむ
<用語解説>
◆日本三大悲恋伝説
「松浦佐用姫」「羽衣伝説」「浦島太郎」となる。
◆大伴狭手彦
豪族・大伴金村の3男とされる。上に挙げた新羅征伐だけでなく、欽明天皇23年(562年)には高句麗を攻め、数々の財宝を得て帰り、天皇や蘇我稲目に献上している。佐用姫との逸話は『万葉集』や『肥前国風土記』にある。
◆山上憶良
660-733。奈良時代初期の歌人。詠まれた歌の大半は筑前守として任地に赴いて以降、大宰帥・大伴旅人(大伴狭手彦5代の子孫)の知遇を得てからのものである。佐用姫伝説が歌に詠まれるなど中央で普及した要因に、この2人の存在を指摘する研究もある。
アクセス:佐賀県唐津市和多田