閑臥庵

【かんがあん】

烏丸鞍馬口から東へ少し行ったところにあるのが、黄檗宗の尼寺である閑臥庵である。しかし、ここの寺で最も有名な伝承はは【鎮宅霊符神(ちんたくれいふしん)】にまつわるものである。

この【鎮宅霊符神】であるが、道教の流れを汲み、陰陽道最高の神とされる。すなわち北辰(北極星・北斗七星)を表す神であり、仏教世界の妙見菩薩と同体と見なされている(妙見信仰も北極星に対する尊崇から生まれてきたものであるとのこと)。しかし、なぜ禅宗の一派である黄檗宗の寺院の境内に陰陽道の神が祀られるようになってしまったのだろうか。

江戸時代初期、後水尾法王の枕元に鎮宅霊符神が立ち「我を貴船の奥の院より洛中へ勧請せよ」との神託を顕した。そして後水尾法王の子、霊元天皇が現在の地に寛文11年(1671年)に遷座せられたのがこの鎮宅霊符神の御廟である。そして開山したのが黄檗山万福寺の住職・千呆禅師ということになる。

この【鎮宅霊符神】であるが、平安時代中頃に方除・厄除として貴船に置かれたものである。この開眼をしたのが、当時の陰陽師である安倍晴明であると言われる。つまりここの神様は安倍晴明ゆかりの神なのである。そして彼の足跡を残すかのように刻まれているのが、六芒星(晴明九字)であり、五芒星(晴明桔梗)である。六芒星は本廟の正面にある石炉に刻まれ、五芒星は本廟脇にある狛犬の台座に刻まれている。いずれも陰陽道のシンボルであり、ここの神が陰陽道に繋がるものであることを如実に示している。(六芒星の石炉は現在五芒星に直されている)

しかしながら閑臥庵の最大の魅力はこの伝承ではなく、むしろ黄檗宗ゆかりの精進普茶料理である。完全予約制で現在も料理を提供している。

<用語解説>
◆後水尾天皇
1596-1680。第108代天皇。在位中に禁中並公家諸法度を出される、また中宮に徳川秀忠の娘和子(東福門院)が入内するなど、幕府からの圧力を受けた(ただし和子は幕府の介入に対して緩衝剤の役割を果たしている)。1627年に紫衣事件での幕府の対応に抗議して譲位する。その後は明正・後光明・後西・霊元の4代天皇の時代に院政をおこなう(和子の意向もあって幕府は黙認)。最後まで幕府の朝廷介入に対して抵抗し続けている。

◆霊元天皇
1654-1732。第112代天皇。譲位された直後は父・後水尾法王の院政に従っていたが、法王の死後は親政を執る。父以上に幕府との距離を置き、強引な政治を行っている。また後に院政を開始し、幕府との確執を大きくしていった。

アクセス:京都市北区烏丸通鞍馬口東入ル新御霊口町