清光院
【せいこういん】
創建は天文11年(1542年)。高橋式部大輔清光(詳細不明。石見から安芸北部にかけて勢力を持っていた国人・高橋氏の一族か)が杵築(現・出雲市)に建てたとされる。その後、慶長5年(1600年)に現在地に移転している。曹洞宗の寺院である。
江戸時代の終わり頃とも言われるが、松江大橋の南、和多見町というところに一人の芸者が暮らしていた。名は松風。人気の芸者であったが、大橋の北側に住む相撲取りと懇ろの間柄となっていた。ところがある若侍が松風を気に入り、次第につきまとうようになってきたことで悲劇が起こる。
松風はいつのように橋を渡って恋仲の相撲取りの家に行って、夜になって帰ろうとした。そして大橋の近くまで来て、偶然にも横恋慕の若侍と出くわしてしまった。目ざとく松風を見つけた若侍が言い寄ってくるが、助けを求める人も夜半ではおらず、松風は橋を渡らず路地へ逃げ隠れようと走り出した。一旦は身を隠したが、橋を渡らないと家に戻れない。松風は知り合いの住職のいる清光院で一夜を明かそうと、そちらへ向かって逃げていった。
ところが不幸なことに、寺の近くまで来て若侍に見つかってしまった。日頃から邪険にされてきた怒りから、殺気すら漂う。とにかくあと少しで寺に逃げ込めると、松風は振り切るように石段を登っていった。しかし当然若侍の足は速い。刀を抜くと一気に石段を登り、背後から松風めけて斬り込んだ。一瞬体勢を崩す松風。
だが気が張っているのか、相当な深手にもかかわらず、松風はさらに石段を登り切って境内に入っていった。若侍はそれ以上追うことはなかった。手応えはあった。もはや助かるはずはなかった。境内に入った松風は、住職に助けを求めることなく、位牌堂の階段を上る途中で倒れて事切れてしまったのである。
翌朝になり、松風の遺体はそのまま清光院に葬られることとなった。だがべっとりと血が染み込んでしまった位牌堂の階段は、いくら綺麗に磨こうが、何をしようが、血の跡が消えることがなかった。現在でもその当時の階段のまま残されているという(写真の石段の上にある柵の奥側が、その階段と言われる)。そしてこの位牌堂の前で、謡曲の「松風」を謡うと、必ず松風の幽霊が現れるという噂が残っている。
<用語解説>
◆謡曲「松風」
観阿弥の作品を息子の世阿弥が改作したものとされる。
須磨の海女であった松風とその妹の村雨は、故あって須磨に流された在原行平(818-893。在原業平の異母兄)の寵愛を受ける。しかし行平は、烏帽子と狩衣を形見として姉妹に渡して京に戻り、間もなく亡くなる。
その後、姉妹の墓標となる松の木で経を読んだ僧が、姉妹の亡霊と遭遇してその身の上話を聞く。その際に、松風は在りし日を思い返して、その狂おしさに形見の烏帽子と狩衣を身につけて舞い続け、さらに心を乱していく。そして妄執を鎮めるための供養を頼み、消えていく。
何かしらの縁で、特定の謡を吟ずると障りがあるという伝承の地が何箇所かある。松江では普門院前の“小豆磨ぎ橋”で「杜若」を謡うと不幸があるとの話が、小泉八雲の作品にある。
アクセス:島根県松江市外中原町