乙宝寺
【おっぽうじ】
天平8年(736年)に行基菩薩と婆羅門僧正(菩提僊那)によって開山。婆羅門僧正がインドよりもたらした仏陀の左眼を納めたことから“乙寺”と名付けられる(中国に右目を納めた“甲寺”がある)。その後、後白河法皇より眼舎利を納める宝塔を賜り、“宝”の字を加えて乙宝寺となった。
古刹として名高いが、最も有名な伝説として「猿供養」の話が残されている。これは『大日本国法華経験記』第126話を初出として、『今昔物語集』『古今著聞集』『元亨釈書』に記載されている。
乙寺に法華経を専ら誦経する僧がいた。ある時から2匹の猿が来て、木の上で1日中経を聞くようになった。数ヶ月して、僧は不思議に思って猿に誦経するかと尋ねると、猿は首を横に振った。さらに写経するかと尋ねると、今度は猿が笑みを浮かべて手を合わせたので、写経をしてやろうと言うと涙を流して木を下りて行った。数日後、多くの猿が木の皮を持ってきた。僧はこれで紙をすいて写経をして欲しいと悟り、早速紙をすいて写経を始めた。2匹の猿は毎日欠かさず現れ、山で採れる木の実などを置いて帰った。しかし法華経の第五巻まで写経した時、ふっつりと猿はこなくなった。気になった僧は山へ行き、そこで猿が2匹とも死んでいるのを見つけた。そして猿の遺骸を葬り、書きかけの法華経を仏像の前の柱の中に納めたのであった。
それから40年もの歳月が流れた。突然、新しく越後の国司となった紀躬高(『今昔物語集』だけは藤原子高とし、承平4年(934年)のこととしている)が夫婦で来訪し、「この寺にまだ書き終えていない法華経はないか」と尋ねた。かつて猿に法華経を写経してやった僧がまだ生きており、そのことを告げると、国司は「私たちは、その時の猿の生まれ変わりです。あなたの誦経によって発心し、その勧めで写経を志したのです。どうかその法華経を最後まで写経していただきたい。私たちはその願いを叶えるために生まれ変わり、この国の国司に任ぜられたのです」と言う。それを聞いて僧は感激し、経を取り出して写経を完成させ、国司もまた法華経を写経して寺に納めたという。
現在、乙宝寺の境内にはこの2匹の猿を供養した墓である猿塚がある。(ただしこの猿供養のための塚や墓はこの地方に複数存在しており、乙宝寺のものも伝承に基づいて後世に造られたものの1つと考えられる)
乙宝寺には猿供養の伝説以外にもいくつかの伝説があるが、中でも不思議なものに“血の池”の伝説がある。血の池は今もあり、境内にある墓地の区画をさらに奥へ入ったところにある。昔は赤ん坊が亡くなることが多かったが、乙宝寺ではそういう子供の遺体はこの池の真ん中まで舟を浮かべて葬ったとされる。そして10本の髪の毛だけを切り取って墓に納めると、葬った翌日から3日間だけ池の水が赤く染まったという。そのためこの池を“血の池”と呼ぶようになったと言われる。
<用語解説>
◆婆羅門僧正
インド出身の僧。唐で活動していた際に、遣唐使の要請により天平8年(736年)に来日。東大寺大仏の開眼供養の際に導師を務める。天平宝宇4年(760年)日本で死去。
◆『大日本国法華経験記』
長久年間(1040-1044年)に比叡山の僧・鎮源が著した。法華経にまつわる霊験や法華経経持者の伝記など129話が書かれている。『本朝法華験記』とも。
◆紀躬高
越後の国司として赴任したとされるが、詳細は不明。なお『今昔物語集』に登場する藤原子高は、天慶2年(939年)に備前介の地位にあったが、藤原純友の謀反を伝えに京へ上る途中、摂津国で捕らえられ耳と鼻を削がれて殺害されたとされる(位階から考えて、これ以前に越後国の国司となる可能性はないと言えるだろう)。
アクセス:新潟県胎内市乙