後醍醐天皇御腰掛岩

【ごだいごてんのうおこしかけのいわ】

元弘元年(1331年)、倒幕をめざして挙兵に及んだ後醍醐天皇は、鎌倉幕府の圧倒的な兵力の前に捕縛され、そして翌年、隠岐に流罪となった。しかし天皇の意志は強く、1年後には隠岐を脱出して再挙兵をめざしたのである。

後醍醐天皇が再起を果たすために手助けしたのは、伯耆国名和で海運業をしていた名和長年であった。そこで隠岐から脱出した天皇を乗せた船は、名和の地に到着する。やはり天皇といえども流罪となった者の決死の脱出行である。名和の湊に辿り着いた天皇は船から下りると、波打ち際の岩に腰を掛けて人心地ついたとされる。これが後醍醐天皇御腰掛岩の由来である。

現在では岩は港の岸壁から少し陸の奥まったところに置かれているが、これは移動させたのではなく、漁港の護岸改修などで陸に上がったように見えるだけであるとのこと。後醍醐天皇の倒幕実現の第一歩は、変わりなく今に受け継がれている。

<用語解説>
◆後醍醐天皇
1288-1339。第96代天皇。持明院統と大覚寺統による天皇の交互即位が鎌倉幕府主導でおこなわれていることに不満を持ち、倒幕を志したとされる。正中の変、元弘の変を経て隠岐に流罪。脱出後は、足利尊氏などの御家人が幕府に反旗を翻すなどしたため倒幕に成功する。そして天皇親政の建武の新政を進めるが、次第に武家勢力の不満に対処できず、足利尊氏の裏切りによって、吉野に逃れ南朝を興す。

◆名和長年
?-1336。伯耆国の侍。海運業を営む悪党とされ、経済的にも富裕であったとされる。後醍醐天皇の隠岐脱出を支援し、天皇を立てて船上山の戦いに勝利して、京都まで同道する。建武の新政では政治にも参画した。湊川の戦い直後に京都で起こった戦いにおいて戦死。

アクセス:鳥取県西伯郡大山町御来屋