三浦大介腹切松
【みうらのおおすけはらきりまつ】
どこにでもあるような児童公園の一角に、いくつかの石碑と共に一本の松の木がある。それが三浦大介腹切松である。
平家打倒を掲げて、源頼朝が伊豆で挙兵をしたのは治承4年(1180年)のことである。この時、頼朝に味方した一大勢力が三浦一族である。三浦氏は三浦荘の在庁官人として“三浦介”を名乗る豪族であったが、その地は源頼義から与えられたものであり、その縁で代々源氏に忠誠を誓っていた。源氏の嫡流が挙兵となれば、一族が味方するのは当然であった。
ところが、伊豆の頼朝に合流すべく兵を動かしたが、川の氾濫で身動きが取れず、結局、頼朝は石橋山の戦いで敗走してしまう。三浦一族も兵を引き、居城の衣笠城に立て籠もる。そこへ数倍もの数の平家軍が攻めてきたのである。
この時の三浦一族の家長は大介義明、齢は89。敗戦必至の状況で、義明は主力である息子達を城から落ち延びさせて再度頼朝に合流するように命じ、そして「源氏の家人として再興にめぐりあえたことは喜ばしい。生き長らえて八十有余年、先はいくらもない。この上は老いた命を頼朝様に捧げ、城に残って手柄を立てたい」との決断を下すのであった。
その後、一族が退却するのを見届けた義明は城と運命を共にして討死したとも言われるが、次のような伝説も残されている。敵を引きつける役目を果たした義明も城を抜け出し、愛馬に乗って一族の墓所へ向かった。ところが、途中にある松の木のそばで愛馬が急に立ち止まって動かなくなってしまった。義明はここに至って己の運命を悟り、そこで馬を解き放して、切腹して果てたという。その場所にあった松が腹切松と呼ばれるようになったという。ちなみに石碑の左横に扁平な石があるが、かつては黒白二つの石があって「駒止石」と呼ばれていたともいう(現在は黒石のみが残り、白石は行方知れずとのこと)。
<用語解説>
◆三浦義明
1092-1180。三浦氏の4代目当主。源氏の家人として活躍し、源義朝(頼朝の父)の関東での地盤固めに貢献した(娘の一人が義朝の側室となっている)。頼朝挙兵の直後に衣笠城に籠城して討死。息子の三浦義澄らは頼朝に合流して源氏軍の主戦となり、鎌倉幕府初期の宿老として政権を担った。また頼朝は後に義明の菩提を弔うために、腹切松の近くに満昌寺を開き、首塚を建てている。
なお、那須の殺生石で有名な九尾の狐退治に登場する“三浦介”は義明を指すとされる。
アクセス:神奈川県横須賀市大矢部