旧相模川橋脚

【きゅうさがみがわきょうきゃく】

自然は時折、思いも掛けないような奇異なるものを人々の目の前に出現させることがある。

大正12年(1923年)に起こった関東大震災とその余震によって水田から現れたのは、7本の柱であった。さらに調査をすると3本の柱を確認、計10本の柱が忽然とこの世界に甦ったのである。

歴史学者の沼田頼輔はこの柱を『吾妻鏡』に照らして、鎌倉時代に相模川に架けられた大橋であると鑑定した。平成になってからの調査の結果、これらの柱は1200年頃に伐採されたヒノキ材であり、2m間隔で3本一列に並べられ、その列が10m間隔で4列になって並んでいることが判った。まさに鎌倉時代に造られた橋脚であると結論づけられたのである。現在、この橋脚は中世の遺構として史跡に指定されると同時に、関東大震災時の液状化現象を示すものとして天然記念物にも指定されている。

突如として現代に現れた遺構というだけでも十分伝説的であるが、この橋そのものも曰く因縁を持った存在である。この大橋は建久9年(1198年)に稲毛三郎重成が妻の冥福を祈るために建造したものである。この妻が北条政子の妹であったため、この落成に際しては源頼朝も参列している。そしてその帰り道、頼朝は死の直接的な引き金となった落馬をしているのである。この落馬の原因が怨霊であるという説がある。

『北條九代記』という書物によると、頼朝は八的ヶ原という場所で、自分が滅ぼした源義経や源行家らの怨霊と出くわし、からがら逃げたという。しかし稲村ヶ崎で遂に安徳天皇の亡霊と遭遇するに至って失神、落馬したというのである。

頼朝が死の間際に見た橋そのものを、800年の時を経てじかに見る。何か不思議な気分にさせる伝承地である。

<用語解説>
◆『吾妻鏡』
源頼朝の伊豆の挙兵から始まる、鎌倉幕府の歴史を記した歴史書。鎌倉時代末期に成立したとされる。頼朝の死に関しては謎の部分が多く、その死の前後3年分の記載が全く見当たらず、頼朝落馬についてもその死の13年後の記録に付け足すようにして書かれているのみである(落馬が元で亡くなった事実関係のみが記載)。そのため、その死にまつわる怪しい憶測が多々生じることとなる。

◆『北條九代記』
江戸時代、1675年刊の戦記物。北条時政から貞時までの9代にわたる鎌倉執権の時代の物語。浅井了意の作とされる。

アクセス:神奈川県茅ヶ崎市下町屋