羅刹谷

【らせつこく】

京都にかつて“羅刹谷”という恐ろしげな地名があった。恵心僧都源信が今の東福寺と泉涌寺の間にある渓谷を歩いていると、どこからともなく絶世の美女が現れた。美女は源信を誘うと、谷の奥の住処へ連れて行った。そしていよいよその本性を現す。外見は美女であるが、その本性は人を喰らう鬼“羅刹”であった。しかし源信は最初から美女の正体を見破っており、しかも仏道に精進する高僧であるために羅刹は食うどころか触れることもできない。やむなく源信を谷の外まで帰したという。

こんな凄いエピソードがありながら、現在では“羅刹谷”という名は残っていない。『都名所図会』にあたって、この話の出典が虎関師錬の『元亨釈書』であり、正式には“らせつこく”と読むということもわかった。さらに地図を見てようやく二つの大寺院の間に渓谷らしきものがあることに気付いた。とにかく現地へ行ってみて、それらしき痕跡のものを探すしかないようである。

だが当然のことであるが、現在において羅刹が住んでいるはずもなく、民家が建ち並んでいるだけの閑静な場所である。だが、丘を迂回するようにできた細い舗装道路を山の奥の方へ歩を進めると、やはり細い川のせせらぎが聞こえる。“渓谷”があるのだ。そしてそのせせらぎの音は滝の音だったのである。

【白髭大神】とある神社は、完全に寂れた場所であった。唯一整備されていると言っていいのが、“白髭の滝”と呼ばれる滝と、岩屋の中に作られた“御壺瀧大神”だった。岩屋を見た瞬間、羅刹の住処を連想した。それだけこの神社は異彩を放っている。たとえこの場所が羅刹谷と関連がないとしても、この雰囲気だけはその当時の怪しい感触を示すものであると感じた。

結局、周辺をうろついたが痕跡らしいものはなかった。ただそれとなく感ずるところもあった。第一日赤病院裏手から市立日吉ヶ丘高校の周囲を巡り、京都国際高校に至るまでの道のり。これが現在の“羅刹谷”を示す道だと推定するが、いかがだろうか。

<用語解説>
◆恵心僧都源信
942-1012。天台宗の僧。師は良源(元三大師)。『往生要集』を著し、浄土信仰に多大な影響を与えた。

◆『元亨釈書』
(げんこうしゃくしょ)。元亨2年(1322年)に完成。伝来から鎌倉時代までの仏教通史。虎関師錬は臨済宗の僧で、東福寺・南禅寺の住持などを務めた。

アクセス:京都市東山区今熊野南谷町(御壺瀧大神)