厩石/義経寺
【まやいし/ぎけいじ】
津軽半島の突端となる竜飛岬から国道に沿って約10kmの地点に三厩港がある。その北はずれに小山のような巨大な岩がある。これが厩石である。
奥州平泉で最期を遂げた源義経主従は、実はその後も存命し、さらに北へと逃避行を続け最後は蝦夷地へと渡ったという伝説が根強く残っている。この北行伝説の本州最後の舞台となるのが三厩の地である。
蝦夷へ渡ろうとした義経主従は、海が荒れていたため船を出すことが出来ない。そのため義経は守り本尊である観音像をこの巨石の上に置いて三日三晩祈った。すると白髪の老人が現れ、「三頭の竜馬を与えるので、それで海を渡ると良い」と告げた。岩を下りると、3つの岩穴にそれぞれ馬が繋がれており、海も穏やかとなって、義経主従は無事に蝦夷へ渡ることが出来たという。この不思議な伝説によってこの巨石は“厩石”と呼ばれ、さらにこの土地も“三厩”となったとされている。
この伝説から500年ほど経った江戸時代にこの地を訪れたのが、僧の円空である。寛文7年(1667年)に円空は義経ゆかりの厩石に上り、そこで小さな観音像を見つける。そしてその夜見た夢で、これが義経の守り本尊であることを知る。これをきっかけにして円空は観音像を彫り上げ、厩石を見下ろす小高い丘の上に庵を結びしばし滞在したとされる。これが義経寺の始まりとされる。
その後の寺院は、本堂を始め仁王門・観音堂・弁天堂など多くの堂宇が建てられ、北前船の寄港地となった三厩において多くの船頭から信仰を集めたとされる。
<用語解説>
◆源義経の北行伝説
平泉で自害したのは源義経ではなく、本人は弁慶らの家来と共にさらに北へと逃れ、遠野から沿岸部の宮古・久慈・八戸を通り、青森から十三湊を経て三厩に到達したとされ、そのルートに多くの義経に関する伝承が残されている。さらに義経らは北海道を経由して中国大陸へと渡り、最終的にチンギス・ハンとなったという、壮大な伝説となっている。ただし北海道に渡るまでと渡ってからとでは伝説の雰囲気が異なり、特に北海道からの伝説については江戸後期から明治・大正時代にかけて創出されたものであるとされる。
◆円空
1632-1695。美濃出身の廻国僧。数多くの仏像を製作し、その特徴的な造形から“円空仏”と呼ばれる。現在までで5000体を超える作品が確認されている。活動の中心地は美濃や尾張であるが、東北及び北海道(松前)にも初期の作品が残されている。
アクセス:青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩