光徳寺
【こうとくじ】
近江八景の一つ「堅田の落雁」で有名な満月時浮御堂のそばにある、浄土真宗大谷派の寺院である。この寺院には「蓮如上人御旧跡」として、壮絶な信仰の証が残されている。
真宗布教の地として蓮如は堅田を選んだが、比叡山の圧力が強く、この地を離れて北陸へ移ることとした。その際、宗祖親鸞の木像(御真影)を、比叡山と敵対する三井寺に預けたのである。
その後、越前で布教に成功した蓮如は再び京都へ戻り、山科本願寺を建立。その時三井寺に預けた木像の返還を求めた。ところが三井寺の返事は「生首2つ差し出すならば返してやろう」というものだった。
堅田の漁師であった源兵衛はその話を聞くと、父親の源右衛門に「この首を斬って三井寺に持参して欲しい」と言った。困惑する父に向かって源兵衛は「今が阿弥陀如来の御恩に報いる時」と言って意志を曲げず、父は覚悟を決めて泣く泣く息子の首を刎ねたのである。
源右衛門は息子・源兵衛の首を持って三井寺に訪れ、首を2つ持参したと伝えた。そして源兵衛の首を渡すと「もう一つの首は私の首なので、今ここで斬って貰いたい」と言う。これを聞いた三井寺側はまさか実行する者があるとは思わず、恐れおののいた挙げ句、すぐさま親鸞の木像と源兵衛の首を引き渡したという。
現在、光徳寺には堅田源兵衛父子殉教之像が置かれ、父が息子の首をまさに斬らんとする場面が再現されている。そして堅田源兵衛の首として髑髏が残されており、拝観できる。
なお、父親の源右衛門はその後回国巡礼となり、備後国で亡くなった。享年90という。
<用語解説>
◆蓮如
1415-1499。浄土真宗本願寺派8世宗主。浄土真宗中興の祖とされる。当時青蓮院の一末寺に過ぎなかった本願寺を、布教によって大教団にまで拡大させた。蓮如が越前国・吉崎を離れて、京都に山科本願寺が完成するのが文明15年(1483年)のことになる。
アクセス:滋賀県大津市本堅田