羅城門跡
【らじょうもんあと】
平安京の正門と言うべき羅城門であるが、石碑一つあるのみで全く痕跡がない。
怪異の舞台としての羅城門は、既に大門としての役目を放棄した後の時代、平安中期以降に輝きを増す。二階部分にあたる楼上に鬼が棲みつくようになったのである。そして鬼達は人間界の達人と邂逅するのである。
文章博士・都良香が羅城門を通った時、「気霽れては風、新柳の髪を梳る」と漢詩を詠むと、楼上から「氷消えては波、旧苔の鬚を洗ふ」と詩の続きを詠む声がした。良香がこの詩のことを菅原道真に語ると「下句は鬼の詞だ」と言ったという。(『十訓抄』より)
三位・源博雅は、清涼殿から持ち去られた琵琶の玄象の音色を辿って羅城門に行き当たった。音曲が人間の奏でるものではないと悟ると、曲が終えるのを待って呼びかけた。すると縄に結わえられた玄象が降ろされたという。(『今昔物語』より)
頼光四天王の一人・渡辺綱が酒宴の余興で羅城門を訪れた時、上から兜を掴まれた。その掴みかかった腕を一刀の下に切り落とした。腕を切り落とされた鬼は、酒呑童子の副将であった茨木童子であったとされ、七日後にその腕を取り戻したという。(『御伽草子』より)
これだけ錚々たる逸話がありながら、なぜかその実物だけは存在しない。とにかく往時を偲ぶものは何一つない。しかも周辺はもはや住宅地になってしまっているから、再建もままならないところである。
<用語解説>
◆羅城門
平安京造営の際、朱雀大路(現・千本通)と九条通の交差する位置に建てられた大門。洛中と洛外を分ける。弘仁7年(816年)に大風のための倒壊したが再建。さらに天元3年(980年)に暴風雨で半壊、それ以降改修されることなく、荒れるがままとなる。
◆都良香
834-879。文章博士。漢詩に優れ、後世の逸話でも漢詩にまつわるものが残されている。
◆源博雅
918-980。醍醐天皇の孫。雅楽に優れ、管弦とも名手であった。上記の逸話以外にも、朱雀門の鬼から名笛を得た話も残る。
◆渡辺綱
953-1025。源頼光四天王の筆頭。本来は源姓であったが、摂津渡辺に住んだため渡辺姓を名乗る(渡辺氏の祖)。上記の羅城門の逸話は、一条戻り橋の逸話を焼き直ししたものである。
アクセス:京都市南区唐橋羅城門町