膏薬図子 神田神宮

【こうやくのずし かんだじんぐう】

自転車がなんとかすれ違える程度の細い路地。四条通に面しているが、一旦路地へ入ると喧噪とは全く無縁の地となる。

「膏薬図子」という奇妙な名であるが、これはこの地に空也上人が供養のための念仏道場をおいたことが由来だという。「空也供養(くうやくよう)」が転訛して「膏薬」となったという訳である。ちなみに「図子」は「小路」よりも狭い路地の意味とのこと。つまり「膏薬図子」は空也上人が供養のために開いた土地にできた路地ということになる。

この狭い路地の途中、一軒の家を借りるようにして、小さな祠が安置されている。これが空也上人の供養を必要としたものの正体なのである。屋内に丁重に置かれた、ちっぽけな祠こそが京都の神田明神なのである。そして祭神はいうまでもなく、平将門である。

関東で乱を起こした将門は討たれ、その首は京都に持ち帰られて四条河原辺りに晒されたという。この首が晒された場所が、実はこの祠の置かれた場所であるというのである。

その後将門の首は胴体を求めて関東へ飛び去っていくのだが、やはり京都への怨みが強いのか、空也上人が晒し首のあった場所に念仏道場を建てて供養することになる。さらに将門を祀る祠としてこの神田神宮が建てられたのである。(一説では、京都のこの神田神宮の方が本家にあたるとのこと)

<用語解説>
◆平将門
903-940。常陸国の猿島で討ち死にした平将門の首は、その後京都で晒される。晒された場所は四条河原とも七条河原とも言われる。斬られた首を晒す獄門の刑が処せられたのが、史実としてはこの平将門が最初である。現在の膏薬図子の位置は鴨川の河原からかなり離れているが、ここでも首が当地まで飛んできたという伝承が残されている。

◆空也
903-972。“市聖”と称される。南無阿弥陀仏の名号を唱え、市井を回って社会事業をおこなったとされる。京都での活動は940年前後とされている。

アクセス:京都市下京区四条通新町西入ル下ル新釜座町