恵林寺

【えりんじ】

元徳2年(1330年)、当時の守護であった二階堂氏が夢窓疎石を招いて開いた古刹である。応仁の乱後、武田氏が菩提と定めたことによって再興された。特に武田信玄が篤く崇敬し、寺領を寄進し、さらに美濃より快川紹喜を招いている(快川紹喜を招いた永禄7年(1564年)の時には既に出家剃髪して、信玄を名乗っている)。そして己の死を3年間秘した後の葬儀はここで執りおこなわれおり、信玄の公式の墓所も恵林寺とされている。

信玄とゆかりの深い恵林寺であるが、最も有名なものが“武田不動尊”と呼ばれる木像である。これは生前の信玄が仏師・康清と対面して彫らせた不動明王像であり、その姿を模したものであると伝えられている。また自らの毛髪を焼き、それを混ぜた絵の具で彩色させたともされる。

そして快川紹喜にまつわる有名な逸話も残されている。天正10年(1582年)4月。武田家滅亡直後の残党狩りがおこなわれ、食客であった佐々木次郎(六角義定)が恵林寺に逃げ込んできた。探索した織田勢が引き渡しを要求するが、住職の快川紹喜はそれを拒絶。そのため寺は焼き討ちに遭う。その時、三門に追い込められた快川紹喜は
「安禅必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火もまた涼し」
という偈を遺して焼死したのである。

恵林寺は、その後、甲斐を領有した徳川家康によって再興され、現在に至っている。再建された三門の柱には、快川紹喜の偈が今も掲げられている。

<用語解説>
◆武田信玄
1521-1573。甲斐の領主として版図を広げ、戦国時代最強の武将とされる。一方で禅宗をはじめ神仏に深く帰依する。出家剃髪をおこなったのは30代頃とされ(正確な時期は不明)、幼少の頃より学問の師と仰いでいた岐秀元伯によって得度している。
墓所については恵林寺が公となっているが、実際には現在の愛知・長野県境あたりで亡くなったものとされている。この周辺には“信玄の墓”とされるものが複数存在する。

◆快川紹喜
?-1582。美濃出身の僧。姓は土岐氏とされる。武田信玄の招きで恵林寺住職となる。
三門の偈は、実際は快川の創作ではなく、晩唐の詩人・杜荀鶴(846-904)の作った詩の一部である。この句の部分だけが、臨済宗で重んじられた『碧巌録』に掲載されており、これを発したわけである。
なおその意は「坐禅を組むのに静かな山中や水辺を選ぶ必要はなく、心が無の境地にあれば寒暑に煩わされることもない」である。

アクセス:山梨県甲州市塩山小屋敷