伝和気清麻呂公墓所

【でんわけのきよまろこうぼしょ】

奈良時代の終わりに起こった「宇佐八幡宮神託事件」で身命を賭して皇統を守り、さらに平安京遷都の進言をおこなったとされる和気清麻呂は、備前国の地方豪族の出身である。現在の和気町藤野が出生地とされる。そして正式な墓所は、平安京造営に当たるなど中央官僚として任を全うしたことから、自らが開基となった京都の神護寺境内にある。しかし和気町藤野にある和気神社から西へ約7kmほどの赤磐市松木に、和気清麻呂の墓と称されるものがある。そして案内板によると、この墓は清麻呂の分骨が埋葬された場所ということになっている。

墓所の前には備前焼の和気清麻呂像が立ち、その奥に2基の宝篋印塔が並んである。宝篋印塔はいずれも江戸時代前期の作と言われており、かなり古くから特別な地として信仰の対象となっていたことが分かる。2基のうち左側の大きな方が和気清麻呂の墓とされ、右側の小さい方が清麻呂の姉の和気広虫(法均尼)のものとされる。

また別説では、この松木の地が本当の出生地であるとか、後年官を辞して故郷に戻ってこの地に亡くなったともされている。ただ、この地は史実として和気清麻呂にとってゆかりの地であり、特に備前・美作国の国造に任ぜられた清麻呂が、新たに山陽道の駅家を設けた地として知られている。

現在では3月1日に、地元の人によってお祭りが催されているとのこと。

<用語解説>
◆和気清麻呂
733-799。神護景雲3年(769年)に起こった宇佐神宮神託事件で神意を確かめる命を受け、道鏡が皇位に就くことを阻止したため配流となる。その後称徳天皇崩御後に復位、備前・美作国の国造に任ぜられる。桓武天皇即位後より重用され、民部卿及び平安京造営大夫を兼任する。

◆和気広虫
730-799。和気清麻呂の姉。女官として孝謙(称徳)天皇に仕え、早くより出家して法均尼を名乗る。宇佐神宮神託事件では、先に宇佐神宮へ派遣の命が出たが、体力的なことを理由に弟の清麻呂にその役を託した。弟と共に道鏡の怒りを買って流罪となるが復帰。最終的に典侍の位まで昇進する。

アクセス:岡山県赤磐市松木