西福寺 炎石

【さいふくじ ほむらいし】

西福寺は寛永9年(1632年)に了学上人の隠居所として建立された浄土宗の寺院である。その山門付近に一基の板碑が置かれている。

この板碑は明治4年(1871年)に廃寺となった妙見寺にあったものを移したとされ、さらにその元を辿ると、同市蔵持にある3基の板碑と並んで神子女引手山にあったものとされる。

建長5年(1253年)、時の執権・北条時頼は民生安定のためにこの地に豊田四郎将基の供養碑を建てた。その際に時頼は、いまだ平将門が祀られていないことを聞き及び、自らが奏上して勅免を得ると、千葉胤宗に命じて将門の赦免と供養のための板碑を建てるように命じたのである。さらに翌年と翌々年には、豊田氏・小田氏といった将門所縁の一族によって板碑を建て、その次の年にも将門の父である良将の供養のために板碑を建てた。この4年続けて建てられた板碑のうち、建長6年の板碑だけが妙見信仰の縁で妙見寺に移され、さらに西福寺に置かれているのである。

この建長6年の板碑には「炎石」の別名が残されている。天保年間(1831-1845)のこと。ある旗本がこの石を気に入り、縄を掛けて持ち運ぼうとした。ところがその夜、突然この石が炎を噴き出したため、旗本は恐れおののいて逃げたという。それ以来、この板碑は「炎石」と呼ばれるようになり、将門公の霊が籠もっていると信じられるようになった。さらにはこの石に縄を掛けると病が治るという言い伝えも出来たという。

<用語解説>
◆北条時頼
1227-1263。鎌倉幕府第5代執権(在位1246-1256)。執権として北条得宗家(嫡流)の専制体制を築くと同時に、御家人や庶民への善政を施した。特に執権引退後に出家すると、旅の僧として諸国を巡り民情を視察したとされる。

◆豊田四郎将基
曾祖父に平貞盛(平将門の従兄弟で、将門討伐で功があった)を持つ。前九年の役(1051~1062)の際に源頼義・義家に従軍した功により豊田郷を賜り、豊田氏を名乗る。豊田氏はその後鎌倉幕府の御家人となるが、宝治合戦(1247年)で敗れ、それ以降衰退する。

◆平将門
?-940。親族との土地争いから、朝廷に対して反旗を翻して「新皇」を名乗り、関東一円を一時的に支配した。朝敵として討ち取られるものの、関東一帯の守護神として崇敬を受ける。
なおこの4基の板碑が最初に建てられた「神子女(みこのめ)」という土地は、討死した平将門の一族の遺骸を埋めた場所とされ、「御子埋」という言葉が転訛したものであるとも言われる。

アクセス:茨城県常総市新石下