萬念寺 お菊人形

【まんねんじ おきくにんぎょう】

“髪の毛が伸びる人形”という怪異の1ジャンルを確立したと言っても間違いない「お菊人形」が安置されている。ただ寺そのものは、北日本でよく見かける、ごくありふれた建物であり、この物件がなければ集落の檀家だけが訪れるだけの何の変哲もない寺院だったろうことは想像に難くない。

お菊人形にまつわる寺の公式な由来は、以下の通りとなる。

大正7年(1918年)8月に札幌で開かれた大正博覧会で、当時17歳だった鈴木永吉が、3歳の妹の菊子のためにおかっぱ頭の人形を買ってやった。菊子はそれを気に入って、寝床まで持って一緒に寝るほど可愛がった。しかし翌年1月に菊子は風邪が元で急死する。人形は、棺に納められるのを忘れたため、遺骨と共に仏壇に飾られたのであるが、いつしかおかっぱのはずが肩まで髪の毛が伸びてしまっていた。昭和13年(1938年)になって、鈴木家は北海道を離れ樺太に移ることとなり、萬念寺にこの人形を預けた。戦後、追善供養のために戻ってくると、人形の髪の毛はさらに伸びており、菊子の霊が宿ったものとしてそのまま萬念寺に納めて永代供養を頼んだのである。

ところが、小池壮彦のレポート(宝島別冊415『現代怪奇解体新書』所蔵)によると、この人形にまつわる怪異譚の初出は上のものとは全く異なる。

昭和37年(1962年)8月6日号の『週刊女性自身』によると、この人形は昭和33年(1958年)に鈴木永吉の父の助七が寺に預けたものであり、その後助七は本州へ出稼ぎに行って帰ってこなかったという。また人形の髪の毛が伸びているのを発見したのは住職で、預かってから3年ほどして夢枕にずぶ濡れの助七が現れて「人形の髪の毛を切って欲しい」と伝えたため、不審に思って見つけたということになっている。しかもこの人形を大切していた子供の名前は菊子ではなく清子となっている。

ところが昭和43年(1968年)7月15日号の『ヤングレディ』では、上の週刊誌記事を書いた同一の記者が最初とは全く異なる来歴を紹介している。大正7年(1918年)大正博覧会で鈴木助七が買った人形を娘の菊子が可愛がっていたが、娘は急死。昭和13年(1938年)に樺太の炭鉱に出稼ぎに行くことになった助七が萬念寺に人形を預けた。そして昭和30年(1955年)になって、住職が掃除をしている最中に、髪の毛の伸びていた人形を発見して供養したという展開になっている。

最終的に、萬念寺公式の由来と同じ内容となるのは昭和45年(1970年)8月15日付の『北海道新聞』に掲載されたコラムからであり、それ以降は異説は全く登場してこなくなる。

“髪の毛が伸びる”という事実に対しても、合理的な理由が考えられ、超常現象ではないという見解も採られている。特に有名のものは、この種の日本人形の植毛方法は1本の長い人毛を半分に折って2本の髪の毛としてくっつけるために、経過年によって折られた髪の毛がずれて一方だけが長くなるという推論がある(ただしこの論が正しいと、人形の髪の毛の総数そのものが減り、見た目の髪の量が減るはずである)。また寺によると、髪の毛が伸び続けるので年に1回の割りで供養として髪を切って揃えているとしている。しかし、残念ながらその切り揃えられた人形の写真が公開されたという話は聞かない。さらに過去と最近の写真を比較すると、伸びている髪の毛の長さが変わっていないと判断せざるを得ないものが殆どである(近年になって髪の毛の伸びる速さがかなり鈍っているという説明がなされているが)。率直に言うと“髪の毛が伸び続けている”という説明はかなり厳しいものがある。

そしてお菊人形の怪異として挙げられるもう1つの特徴は“口がだんだんと開いていく”という内容である。写真で見ても判るように、お菊人形の口はわずかに開いている。本によっては“開いた口から歯のようなものが見える”という記述まである。こちらも初めは口を閉じていたとされるが、それに類する写真は見たことがない。写真によって口の開き方が若干異なるように見えるものがいくつかあるが、果たしてどこまでが真実かを判定するには少々難しいところである。

萬念寺を訪れて実物を見ると、写真で見た時よりも愛くるしい人形という印象を受けた。魂が入っているため“写真に撮られることを嫌って”写りが悪くなるそうである(それ故写真撮影も禁止である)。最早合理的な説明がつけられたからといって、お菊人形は伝説の域の存在であることに変わりない、というのが正直な感想である。

アクセス:北海道岩見沢市栗山町万字