土御門家墓所

【つちみかどけぼしょ】

名田庄の地は南北朝時代から土御門家の所領となっている。文和2年(1355年)にこの名田庄が泰山府君祭料として土御門有世に与えられたのが、土御門家との関係の始まりとされる。

土御門家は元は安倍家。祖先を安倍晴明として、代々陰陽道を能くして朝廷に出仕してきた。有世の代以降も名田庄との関係は続くが、応仁の乱(1467年)によって京都の町が戦乱の中心となったため、住まいをこの名田庄に移したのである。これが有世の曾孫に当たる、土御門有宣が当主の時である。それから有春、有脩の3代に渡って隠棲したのである(ただし陰陽頭として度々京都へも赴いている)。そのため、名田庄には有宣・有春・有脩の3人の墓が残されている。

その後、土御門家は有脩の子・久脩の代になって京都に戻ることになり、さらに泰福の代に陰陽道宗家として全国の陰陽道を支配して陰陽師を統括、陰陽寮で天文学や暦の作成を司った。さらに泰福は山崎闇斎の垂加神道を学び、独自の土御門神道を打ち立てた。

明治3年(1870年)陰陽寮は廃止となり、土御門家は天文学と造暦の権限を失い、陰陽道そのものも表舞台から消え去ることとなる。だが陰陽道の系譜は土御門神道として残ることとなり、現在、「天社土御門神道」の名で名田庄にその本庁がある。そしてその儀式を執り行う天壇もこの地にある。

<用語解説>
◆土御門家
有世(1327-1405)を初代とするが、土御門の名を名乗るようになったのは有宣(1433-1514)の代と言われる。有宣・有春(1501-1569)・有脩(1527-1577)の時代は名田庄に隠棲。久脩(1560-1626)の代に京都へ戻り、徳川家康より「陰陽道宗家」の認可を受ける。

◆山崎闇斎
1619-1682。朱子学者。神道にも通じ、それらの思想を集大成した垂加神道を提唱する。

◆垂加神道
朱子学の宇宙観を『日本書紀』神代巻に求め、天照大神を崇拝、その直系子孫である皇室を護持することが神道の本分であると説く。この思想は後の国学や水戸学に影響を与え、幕末の尊皇攘夷運動にまで受け継がれることとなる。

アクセス:福井県大飯郡おおい町名田庄納田終