志明院

【しみょういん】

上賀茂神社そばの御園橋を起点とする府道61号線は、賀茂川に沿うように北上し、雲ヶ畑地区へと達する。バスの終点である岩屋橋からさらに賀茂川支流の雲ヶ畑岩屋川を遡ること約2km弱、ここに岩屋山金光峰寺志明院がある。

志明院の創建は天長6年(829年)。平安京の安寧のため、暴れ川であった鴨川の水源地を守り祀る目的で空海が不動明王を祀ったのが始まりである。この“鴨川の水源地”という意識はその後も続き、境内には水に関わる歌舞伎十八番「鳴神」ゆかりの窟があったり、現在では志明院自体が自然環境運動に積極的であったりもする。

それと同時に、志明院は“魔所”としても認知されており、「都の魑魅魍魎の最後の砦」とまことしやかに言い伝えられている。おそらく都の中心地から10km以上も離れた土地であるが、鴨川を遡って辿り着くことが出来る場所、つまり人里離れた場所でありながら連綿と都と繋がっているとの考えの上に成り立っている言説と推測出来る。京の都に棲み着くあやかしは喧噪の巷で行き場がなくなれば、鴨川の水を伝って深い闇のある神聖な場所へ逃れることが出来るという意味なのだろう。

志明院が魔所として広く注目されるようになったのは、当時新聞記者であった司馬遼太郎がこの宿坊で一夜を明かした際に体験した怪異を昭和29年(1954年)に発表したためである。手記によると、寺の茶室で寝た司馬は障子がガタガタ鳴る音で目が覚め、気になって確かめるが何事もなく、だが布団に入るとまた鳴り出す。そこで障子を開けっ放しにすると、今度は何ものかが屋根の上で四股を踏むような音がして、結局寝ることが出来なかったという。司馬と同じような体験をした者の中には山本素石がおり、障子が勝手に開いたり、足音どころかもっと大きな音が天井からしたらしい。また院主自身も怪異については認めており、「山中に灯る龍火」「山頂天狗松から殷々と響く天狗の雅楽」「妖怪の騒ぎ」の3つを具体的に挙げている。

境内は聖域ということで撮影禁止(山門までは可)。また飲食も禁止で、ほとんどの荷物は山門受け付けに預けて参拝することになっている。

<用語解説>
◆「鳴神」
歌舞伎十八番の一つ。
朝廷より世継ぎ誕生祈願を依頼された鳴神上人は成功するが、恩賞である戒壇建立の約束を反故にされ、その報復として全国の龍神を滝壺に封印してしまった。大干魃に困った朝廷は、随一の美貌を持つ雲の絶間姫を上人の許に遣わして、色仕掛けで難を打開しようとする。雲の絶間姫は上人の住む庵を訪れて徐々に言い寄り、遂に契りの盃を酌み交わす。色香に酔った鳴神上人は酔い潰れ寝てしまい、その隙を見て姫は滝壺にあった封印の注連縄を切って逃走する。大雨の音で目を覚ました上人は騙されたことに気づき、髪を逆立て炎に包まれてその後を追い掛ける。
この鳴神上人が龍神を封印したとされる洞穴が、志明院の境内に今も残されている。これも都の水源地として志明院が認識されていたことが大いに関係すると推測出来るだろう。

◆司馬遼太郎
1923-1996。歴史小説家。昭和36年(1961年)に専業になるまで、産経新聞記者のかたわら作家業をしていた。ちなみに志明院での体験は「石楠花妖話」というタイトルで発表されている。

◆山本素石
1919-1988。釣り研究家・エッセイスト。つちのこブームの火付け役とも言われる。山本は司馬の体験談を読んでおり宿坊に泊まることを避けていたが、ある時渓流釣りの帰りに日が暮れてしまい、やむなく懇意の院主に頼んで一夜の宿を借りて怪異に遭遇したという。

アクセス:京都市北区雲ヶ畑出谷町