慶明寺 安倍晴明ゆかりの石
【けいめいじ あべせいめいゆかりのいし】
現在では神戸市に属しているが、旧国名で言えば播磨国明石郡に属する一帯にある寺院である。創建は弘安4年(1281年)、臨済宗の寺である。
この寺の門前へ至る道の途中、広大な墓苑へも通じる場所に「安倍晴明ゆかりの石」と言われる巨石が地蔵などと共に置かれている。よく見ると表面には3つの梵字が刻まれ、それぞれが○で囲まれている。説明によると、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊を表しているとのこと。伝説によると、この梵字を安倍晴明が自らこの岩に彫ったことになっている。
この地と安倍晴明との関係であるが、『播磨鑑』によると、花岡山という場所に晴明が居を構えていたとされる。花岡山は、このゆかりの石が置かれた場所の上に広がる墓苑一帯の高台を指していたと言われており、かつてはこの花岡山には安倍晴明手植えの松の木があったという。またかつては花岡山の南にある日輪寺という寺の僧が毎年10月9日から7日間、このゆかりの石のあたりで安倍晴明追善供養をおこなっていたという記録も残っている。
この手彫りの石にはさらに伝説があり、安倍晴明が梵字を彫ったのは、この花岡山にかつてあった花岡太郎という悪党の霊が荒れ狂ったため、それをこの石の下に封印したとされている。ただしこの花岡太郎という悪党であるが、史実としては鎌倉時代末期に幕府の命に従わず独自に勢力を伸ばしていった新興武士団“悪党”の一人とされている。つまり安倍晴明よりも300年ぐらい後に活躍した人物であり、時代が全く逆行してしまっている。
ともあれ、この地には旧播磨国各地に残される安倍晴明伝説の1つがしっかりと残されているのは間違いない事実である。
<用語解説>
◆安倍晴明
921-1005。朝廷の陰陽道宗家として、天皇や摂関家からの信任も篤く、頻繁に占いや陰陽道の儀式を執りおこなったとの史実が残る。播磨国との関係であるが、生前に播磨守に任ぜられており、また市井の陰陽師の多くが播磨国出身であることから、数多くの伝承が残されることになったと推察される。
◆『播磨鑑』
江戸時代の地誌。作者は医師であった平野庸脩。正確な成立年代は不明であるが、江戸中期には完成していたとされる。
アクセス:兵庫県神戸市西区平野町慶明