長松寺
【ちょうしょうじ】
長松寺が現在地に移転したのは寛永元年(1624年)。創建は永正4年(1507年)とされるが荒廃、移転と共に臨済宗から曹洞宗に改宗もしている。庫裏は高崎城本丸の不要材を移築したもので、書院は徳川忠長が自刃した部屋であると伝えられている。また幕府の御用絵師を務めた狩野探雲による天井画が市の文化財となっている。
この寺の墓地の一角に、非常に不気味な伝承を持つ墓がある。
時代はおそらく天明(1781~1788年)の頃と推定されるが、高崎藩で仇討ち騒ぎが起こった。藩士の磯貝久右衛門が同僚を殺害して逐電したのである。当然、父を殺された長谷川源右衛門は藩の許しを得て、仇討ちの旅に出る。当時は仇討ちが成就できなければ帰藩も許されない風潮があり、源右衛門も必死で磯貝の足取りを追って方々を訪ね歩いたという。
数年が経ち、結局、源右衛門は仇に巡り会うこともなく高崎に戻ってきた。しかしここで事の真相を知る。既に磯貝は亡くなっており、地元の長松寺に葬られていたのである。
永久に父の仇を討つことが出来なくなった源右衛門は、あまりの無念に槍を持ちだして、長松寺にある磯貝の墓に向かった。そしてそれまでの苦難を一気に吐き出すかのように、墓石目がけて槍を一突き。すると槍は墓石に突き刺さり、それを引き抜くとたちまちそこから赤い血が流れ出たという。
現在でも、その墓が一般の墓と同じように並んで置かれている。墓の裏側に回ると確かに穴が開いており、何かが伝い流れたような跡が残っている。今でも雨の降る日には、赤い液体が流れ出ることがあると言われているが、定かではない。また磯貝の墓の前にある剣のような形をした墓が、長谷川源右衛門のものであるとも言われている。
<用語解説>
◆徳川忠長
1606-1634。2代将軍・徳川秀忠の次男(兄は家光)。駿河55万石を領するが、将軍となった家光と対立。次第に乱行が頻繁となり、遂には所領没収の上、高崎藩の安藤家にお預けとなり自刃する。
◆事件の異説
わずかであるが、磯貝九右衛門を長谷川源右衛門が遺恨を持つようになった原因について、磯貝が長谷川の妻を奪ったためという異説がある(この説であれば、両者の墓が高崎の同じ寺にあること、討手側の長谷川源右衛門の名があまり表に出てこないことも、ある程度説明がいくものになるだろう)。ただしあくまで“異説”ということで。
アクセス:群馬県高崎市赤坂町