曾我十郎五郎首塚
【そがじゅうろうごろうくびづか】
日本三大仇討ちで有名な曾我兄弟は、源頼朝の富士の巻狩りに乗じて仇の工藤祐経を討つと、兄の十郎祐成はその場で討死、弟の五郎時致は捕らえられた後に斬首となっている。また『曽我物語』によると、兄弟の首級は故郷である相模国曾我の庄に送り届けられ、そこで火葬されているとされる。
ところがその高名故か、曾我兄弟を供養したという碑や塚が全国各地に点在するが、その1つが関東から遠く離れた伊予国にある。そしてこの地には仇討ちの“その後”についての伝承も残されている。
兄の十郎祐成の首級は、家来の鬼王団三郎が生まれ故郷の宇和の地に持ち帰ろうとしたという。しかし瀬戸内を船で渡る途中で時化に遭って双海町の上灘に漂着、そこから陸路で中山を経て、内子の乙成に達した。ここまで来たが、追っ手の追及が厳しく、さらに首級が異臭を放つほど腐敗が進んでしまったため、やむなくこの地に埋めて塚を造ったとされる。
現在、乙成の地には十郎神社が建てられ、塚石を守るように祠が建てられている。石には“曽我十郎祐成首塚”と刻まれ、その浦には建久4年(1193年)に富士野の巻狩で仇の工藤祐経を討つも、その家臣の仁田四郎に討ち取られ、宇和島の鬼王がここに持ってきて埋めたと記されている。さらにそのそばには弟の五郎時致を祀る小さな祠があり、兄弟を合わせて祀るようにされている。おそらく弟の方は、兄の伝承から派生して後日に造られたものであり、兄弟を揃えて信仰の対象としようとしたものであると推察できる。
<用語解説>
◆曾我兄弟の仇討ち
兄弟の祖父である伊東資親が工藤家の所領を奪い取ったことに祐経が恨みを持ち、資親を狙った矢が嫡男の祐泰に当たり落命したことが発端となっている。工藤祐経は後に源頼朝の側近として権勢を持ったが、この仇討ちによって工藤家は没落した。このため北条氏などの一部有力御家人が曾我兄弟を利用した権力抗争事件であるとの解釈がある。
なお“日本三大仇討ち”は他に、荒木又右衛門の三十六人斬りで有名な「伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)」、赤穂藩浅野家の旧臣が吉良上野介を討った「赤穂事件(赤穂浪士の討ち入り)」となる。
◆『曾我物語』
鎌倉時代末期から南北朝時代に成立した軍記物。初期の編集(真名本)では地名や人物についてはある程度史実に即して書かれているが、時代を経た後の編集(仮名本)では仇討ちの顛末がより劇的に書かれた内容となっている。この仮名本を下敷きにして歌舞伎や浄瑠璃の台本が作られている。
◆鬼王団三郎
「曽我物」と呼ばれる歌舞伎や浄瑠璃の演目に登場する、曾我兄弟の忠臣。仇討ちの際にも同道し、形見を持ち帰ったとされる。ただ鬼王団三郎とは、鬼王新左衞門(鬼王丸)と弟の団三郎(道三郎)の2人の兄弟を合わせた名前とするのが通例である(伝承によっては一人の人物として描かれる場合もある)。またその出自を伊予国としているが、宇和郡鬼北町にかつてあった等妙寺の縁起によると、開山の理玉和尚がかつて曾我兄弟の亡魂を導いたことに対して、年老いて伊予の山中に暮らす鬼王・段三郎の兄弟が寺院建立に助力したことが書かれている。
アクセス:愛媛県喜多郡内子町大瀬乙成