岩見重太郎仇討の場

【いわみじゅうたろうあだうちのば】

日本三景の一つ天橋立は、宮津湾に横たわる幅20~170m、長さ約3.5kmの砂州である。徒歩で片道約1時間ほどの散策路でもあり、砂州の中には神社を始めいくつかの建物もある。その散策路の途中にあるのが、岩見重太郎にまつわる伝承地である。

岩見重太郎は、織豊時代から江戸初期にかけて実在した人物であるが、その半生は講談や読本によって大いに脚色され、天下無双の豪傑として人口に膾炙されている。

父親は筑前にあった小早川隆景の家臣(剣術指南役という身分とされる)・岩見重兵衛で、その次男が重太郎とされる。父が同僚であった広瀬軍蔵・鳴尾権蔵・大川左衛門によって殺害されたため、重太郎は仇を追って諸国を旅しながらその土地で起こった事件を解決するというストーリーで豪傑ぶりを発揮する。特に有名な逸話が“狒々退治”のくだりで、人身御供を要求する神に対して不審を持ち、人身御供の当夜に現れた化け物を打ちのめすと、それが狒々であったという話。他にも山賊退治など大活躍した重太郎は、ついに丹後宮津に仇がいることを知り、天橋立で見事仇討ちを成し遂げたのである。(宮津に入って仇討ち本懐の前に、籠神社の狛犬が夜な夜な天橋立を徘徊していたのを、前足を斬ることで動かなくさせる大活躍をしている)

現在天橋立にある岩見重太郎関連のものは、宮津市制50周年を記念して造られた“岩見重太郎仇討の場”の碑と、宮津入りした岩見重太郎が刀の切れ味を確かめるために斬ったという“試し切りの石”である。地元の説明によると、岩見重太郎の仇討ちは宮津藩・京極氏の時、寛永9年(1632年)9月20日のこととしている。

しかし、岩見重太郎の伝説ではこの仇討ちは天正18年(1590年)のこととし、重太郎は後に名を薄田兼相と変えて豊臣家に仕え、大坂夏の陣(1615年)で討死したとされる。豪傑らしい波瀾万丈の人生の方が、伝説としては面白いかもしれない。

<用語解説>
◆籠神社の狛犬
籠神社は天橋立の北端にある、丹後国一之宮。伊勢神宮が現在地へ遷座する前、この地で天照大神が滞在したことから“元伊勢”とされている。また世襲の宮司である海部氏は、天孫の彦火明命を祖とする。
狛犬は鎌倉時代の作とされ、現在国の重要文化財に指定されている。なお岩見重太郎が斬りつけた時にできた傷は、阿形の狛犬の右前足部に残されている。

◆薄田兼相
?-1615。通称は薄田隼人。前半生の事績は不明。豊臣家に仕えてからは、秀吉の馬廻衆に任ぜられている。秀吉死後は秀頼に仕え、大坂冬の陣では博労淵の守備を担当していたが、遊女の元にいて不在時に敵の急襲を受けて落とされ、“橙武者”の誹りを受ける(飾りになるだけで何の役にも立たない意)。大坂夏の陣では道明寺の戦いに参戦、前線で戦うも討ち死にした。

アクセス:京都府宮津市文珠