清姫の墓

【きよひめのはか】

有名な「安珍・清姫」の話は、熊野詣から端を発する話であり、熊野古道にその伝承地が残る。

奥州の僧であった安珍は毎年熊野詣をおこなっており、毎年のように真砂にある庄司の館を宿としていた。その館の娘の清姫がまだ幼い時に駄々をこねたことがあったが、それをなだめるために安珍は「良い子にしていたら嫁にしよう」と口約束をした。それを本気にした清姫は年頃になって、その約束を果たすように安珍に迫る。困った安珍は「熊野参詣が終わったら戻ってくる」と嘘をつき、帰り道に真砂に寄らずそのまま奥州に戻ろうとした。他の人からの話で安珍の行動を知った清姫は悔しさのあまり後を追い掛け、やがてその邪念から蛇身へと変化し、ついに道成寺にたどり着いて、鐘の中に隠れた安珍もろとも焼き殺してしまうのである。

清姫が住んでいたとされる真砂の地には、清姫の墓と呼ばれるものがある。この地の伝説では、清姫は、真砂の庄司藤原左衛門之尉清重の娘であるが、その母親は清重に命を救われた白蛇であるとされる。そして安珍が清姫に言い寄るものの、障子に映った清姫の影が蛇であることに気付いて逃げ出す。これに世をはかなんだ清姫は淵に身を投げて亡くなるが、その安珍を思う情念が蛇に化身して道場寺まで追い詰めたとされる。これが延長6年(928年)の出来事とされ、清姫の墓がある場所が庄司の館、そのそばにある淵が清姫が身を投げた場所(清姫渕)と言われる。

<用語解説>
◆真砂の庄司家
清姫の実家である庄司家は熊野本宮の禰宜職にあり、父の清重が3代目にあたる。この清重の代の時に真砂の地の荘官として移ってきたとされる。その後、庄司家は小領主としてこの土地を治めていたが、天正13年(1586年)豊臣秀吉の紀州攻めの際に一族ことごとく滅びたという。

アクセス:和歌山県田辺氏中辺路町真砂