祈り岩/駒立岩

【いのりいわ/こまだていわ】

屋島の戦いは、阿波から陸路を進んだ寡兵の源義経の源氏軍に対して、それを大軍と勘違いして船にに乗り込んで海上で対峙する平家軍という配置から本格的な戦闘状態となった。だがお互い弓矢を射かけるしか攻撃が出来ず、勝敗を決することなく日没が近づいていった。

すると平家方から一艘の小舟が進み出てきた。舟には美しい女官が一人、先に紅地に金の日輪を描いた扇を挟んだ竿を立てて、陸の源氏に向かって手招きをする。この扇を射抜いてみせよという謎掛けであろうと察した義経は、さっそく剛勇で名高い畠山重忠に命じた。ところが重忠は断り、代わりに那須兄弟を推挙する。その那須兄弟の兄・十郎も断ったため、弟の那須与一にその大役が回ってきたのである。もはや断りようのない与一は腹を括ると、馬に乗ったまま海へ入って舟との距離を縮める。それでもなお約7段(約80m)の距離がある。与一は目を閉じて神仏に祈りを捧げ、再び目を開けると、今まで強い風が吹いて波間に漂う的の扇の揺れが幾分か和らいでいた。ここぞとばかり与一は弓を引くと鏑矢を放った。すると矢は見事扇に当たり、射落としたのである。

源平の合戦の中でも屈指の場面とされる那須与一の活躍であるが、現在でもこの逸話にまつわる遺構が残されている。

民家の玄関横に庭石のようにあるのが“祈り岩”と呼ばれ、与一が弓を射る前に神仏に祈りを捧げた場所であるとされる。そしてそこから数十mもいかない水路の中にあるのが“駒立岩”である(満潮時には水没するらしい)。馬に乗ったまま海に入った与一であるが、足場を安定させるためにこの岩の上に馬が立つようにして矢を射たのであるとされている。かつてこの地で源氏と平家が戦をしたことが信じられないような、宅地に囲まれて海もほとんど見えない場所であるが、この2つの遺物はその風景の中に違和感なく入り込んでいる。

<用語解説>
◆那須与一
1169?-1189?。与一の名の通り那須資隆の11男であるが、平家征討に功績があったため、那須家の2代当主となる。しかし与一は『平家物語』と『源平盛衰記』にのみ登場する人物であり、当時の歴史書である『吾妻鏡』には全く登場しないため、その実在に疑問の余地が残るともされる。また没年についても、一旦病死ということにして、実は出家してなお30年近く生き延びたとする説もある。

アクセス:香川県高松市牟礼町牟礼