磯部の一本榎
【いそべのいっぽんえのき】
護国神社のそば、神通川に沿って流れる松川は桜並木で有名であり、「磯部のさくら」と彫られた碑が建てられている。そのすぐそばに1本の榎が植えられている。これが磯部の一本榎と呼ばれ、怪異の伝説が残されている。
織田信長配下であった佐々成政は越中の大名であったが、柴田勝家と共に羽柴秀吉と敵対関係にあった。賤ヶ岳の戦い後、秀吉に与する大名に囲まれた成政は、徳川家康に接近して打倒秀吉を画策した。ところが天正12年(1584年)、小牧長久手の戦いで突如秀吉と家康は和睦する。慌てた成政は家康説得のために、蛮行に近い行動を取った。越中から真冬の立山・北アルプス連峰を縦走して信濃を抜けて、浜松にいる家康に直談判をしようとしたのである。この【さらさら越え】と呼ばれる行動も虚しく、成政の再挙要望を家康は拒否、失意のうちに成政は富山に戻っていった。
ところが富山に戻った成政は信じられない噂を聞く。最も可愛がっていた側室の小百合が小姓・竹沢熊四郎と不義密通、懐妊している子も竹沢のものというのである。怒りに駆られて熊四郎を斬り捨てると、成政は小百合の髪を掴んで神通川のほとりの榎の木まで引きずっていき、髪を逆手に持ち上げてそのまま吊し斬りにしたのである(一説では榎に縄で宙づりにして斬り刻んだとも)。無実の罪で殺される小百合は歯を噛み砕き、血の涙を流して「悪鬼となって、数年のうちに子孫を殺し尽くして家名断絶させる」と罵り叫んだという。また「立山に黒百合が咲いたら、佐々家は滅亡する」とも言ったという。
その後、この榎には怪異が起こるようになった。風雨の夜、この付近に女の生首と鬼火が現れ、それは「ぶらり火」と呼ばれるようになった。またこの榎の下を「小百合、小百合」と七回呼びながら回ると、小百合の亡霊が現れるとも伝えられた。
小百合を斬殺してから佐々家は凋落、成政は秀吉に降伏して越中の太守から秀吉の御伽衆となった。そして後に肥後一国を与えられるが、国人一揆を誘発した罪によって摂津の尼崎で切腹。天正16年(1588年)、小百合が殺されて僅か4年足らずの出来事であった。
小百合斬殺とその後の怪異については、実は、その後に越中の支配者となった前田家が統治の手段として流した噂話であるとの説もある。明治の頃まで人魂が出ると言われた一本榎であるが、戦災によって焼き払われてしまい、現在あるものは2代目ということである。また榎のすぐそばには小百合の霊を慰めるべく早百合観音堂がある。
<用語解説>
◆佐々成政
?-1588。織田信長配下の黒母衣衆の一人。柴田勝家の与力となり、本能寺の変の時には越中一国の太守であった。勝家と共に秀吉に対抗するが、最終的には降伏する。その後秀吉から肥後一国を与えられるが、統治に失敗(最も一揆の起こりやすい国を任せて滅ぼす、秀吉の陰謀とも言われる)、切腹を命ぜられる。
◆さらさら越え
日本の登山史上の偉業とされる、厳冬の立山・北アルプス縦走。豪雪エリアのザラ峠を越えたとされるため、この名が付けられたとも。佐々成政以下約50名ほどで出発したとされるが、辿り着いたのは約10名ほどであったと言われるほど厳しい走破であったという。そして往路だけではなく、復路も同じルートを取って富山に戻ったと推測される。
またこの時、峠のあたりで人家を発見、中には源平の合戦で名を馳せた平景清と五十嵐(平)盛継がおり、彼らに世の移り変わりを教え、また彼らから信濃へ抜ける道を教えてもらったという伝説がある。さらにこのさらさら越えに関連して、成政の埋蔵金が立山山中のどこかにあるという伝説も残されている。
◆小百合の「黒百合伝説」
小百合が立山の黒百合に呪詛を託したとされるが、『絵本太閤記』では次のような逸話がある。
秀吉に降伏した後に大阪に移ってきた成政であるが、ある時、秀吉正室の北政所に黒百合を献上した。北政所は珍しい花と聞いて、茶会を催して披露してみせて自慢した。ところが数日後、側室の淀君の茶会に招かれると、同じ黒百合が他の花と混じって無造作に生けてあるのを見た。噂をどこかから聞きつけた淀君が内密に取り寄せたものだったが、これを見た北政所は激怒し、ことあるたびに成政を悪し様に言い続けた結果、ついに肥後での失政を問われて死を迎えたという。
また僅か3年ほどの間に失脚し断絶した佐々家の凋落そのものが、小百合の祟りのせいであるという説もある。
アクセス:富山県富山市安野屋町