立石様

【たていしさま】

葛飾区立石の地名の由来ともなった立石様であるが、応永5年(1398年)に出された『下総国葛西御厨注文』にその名があり、その頃には既に有名な物件として知られていたと思われる。江戸期には“冬に縮んで、夏になると膨張する”という不思議な現象が起こる石として噂にのぼっていたとも言う。そして、文化2年(1805年)に近隣の者がこの石の根元を確かめようと掘り下げたことから騒動が始まる。結局掘り下げても根元は現れず、さらには関係者の間で疫病が発生したために“祟り”ということで急遽取りやめ、その後石祠を建てて立石稲荷神社として祀ることになったのである。今でこそ鳥居が設けられ、神様扱いとなっているが、それはさほど古い出来事ではないということである。その後も立石様の噂は生まれ、“掘ったり触ったりすると祟りがある”とか“近くの流れる中川が蛇行しているのは立石様の根を避けているため”とかいう話にまでふくらんでいる。

現在の立石様は、写真で見る通り、水色の柵に囲まれた真ん中に申し訳程度頭を覗かせている石でしかない。多分地面から数センチほどの高さでしかないだろう。しかし天保5年(1834年)に出された『江戸名所図会』の挿絵を見る限りでは、立石様は大人の腰下あたりまでの高さがあり、しかも一抱えほどの大きさの岩として描かれている。さらに石は雨晒しで祀られている形跡はなく、それどころか人が平気で触っている。話によると、立石様は明治以降“弾よけ”の御守りとして削られることが多く、また土砂の堆積や地盤沈下で埋もれてしまったために、現在のような姿になってしまったようである。

実はこの立石様は上流から流れてきた岩ではなく、千葉県鋸南から切り出されてきた石(房州石)であることが調査によって判明している。つまりこの石は人工的にこの地に置かれたものなのである。しかもこの石と同じ材質のものが、近隣の南蔵院裏古墳の石室に使われている。そのため古墳石室の一部ではないか(実際の調査でも地下部分に空洞があるという指摘がある)、あるいは官道の道標として流用されたものが、いつしか歴史の記録から消え去り、後世に珍奇な石として認識されたと考えられる。

アクセス:東京都葛飾区立石