於岩稲荷田宮神社(新川町)

【おいわいなりたみやじんじゃ】

四谷左門町以外にも“於岩稲荷田宮神社”を名乗る神社が存在する。中央区の新川(越前堀)にその神社は存在する。この神社はニセ物どころか、本家本元と称しても間違いないというべき存在なのである。

『東海道四谷怪談』が評判を得て、田宮神社もかなりその恩恵に浴した様子である(史実とは相当な隔たりがあり、神社としては不本意な結果と言えるかもしれないが)。特に上演の際の祟りの噂から、演劇関係者の参拝があり、数多くの役者から崇敬されるようになっていた。ところが、四谷にあった田宮神社は、明治 12年に周辺の大火の被害にあって焼失してしまう。そのような非常事態の際に手をさしのべたのが、歌舞伎役者の市川左団次。彼は私有地を提供し、田宮神社を再興する。しかし、そこは四谷ではなく、芝居小屋に近い新川だったわけである。

田宮神社は移転後も芝居関係者の崇敬を受け、またその知名度から多くの人々の参拝があったという。そうして戦後間もなくまで平穏に新川にあったのだが、事態は一変する。

突如として四谷に“於岩稲荷”を称するものが移転してくる。それが現在も四谷左門町にある陽運寺である。これに慌てたのが田宮神社である。四谷を離れて既に60年ほどになる。しかも陽運寺は、田宮神社が元あった場所の目の前に建立され、お岩様を大いに喧伝している。そこで田宮神社が下した結論は、元の四谷に帰ることであった。

昭和27年に田宮神社は四谷に戻るのであるが、新川にある田宮神社もこの地に残ることになった。つまり神社の歴史からいえば、新川の田宮神社の方が本家とも取れるわけである(実際には越前堀の田宮神社は同格の分社という扱いになっている)。

<用語解説>
◆市川左団次
1842-1904。初代。大阪出身。明治以降に江戸で活躍、市川団十郎・尾上菊五郎と共に“団菊左”と称せられる。自宅は新富町にあった。

アクセス:東京都中央区新川町