すってくりょう 兄弟塚
【すってくりょう きょうだいづか】
菅生本願寺の裏手のあたる坂の登りきったところにある、一名“ほととぎす塚”と呼ばれる塚である。「すってくりょう」「兄弟塚」と大きく案内があるので、見落とすことはほぼないだろう。
鎌倉時代の初め頃、この付近を領有していたのは武蔵七党のうち横山党に属していた菅生氏であった。当主の菅生太郎経孝には3人の息子がおり、長男の有孝が菅生太郎の名跡を継ぎ、次男は小倉次郎経久、三男は大貫馬之亮有経と名乗りそれぞれ分家していたという。
ある時、菅生氏の菩提寺である福泉寺(現在も国道を挟んで菅生本願寺の反対側にある)から使いが来て、田の代掻きに馬を貸して欲しいと言ってきた。ちょうど長男の有孝は所用で鎌倉へ行っており不在であったが、たまたまいた次男の経久が半日ぐらいならばと兄の馬の一頭を貸したのであった。
数日後、所用から戻ってきた有孝はすぐに馬の異変に気付いた。家来に尋ねると、寺の田仕事に貸したという。それを聞いた有孝は武士の乗物である馬を田の仕事に使うとは何事であるか、と怒った。気安く貸し出した弟の経久に食ってかかると、最初は冷静であった弟も売り言葉に買い言葉、最後にはお互いに罵り合うまでの喧嘩になってしまった。
ついに激昂した有孝は刀を抜き放ち、経久もそれに応えて刀を抜く。ついに刃傷沙汰に及ぶと、二人は追いつ追われつしながら刀を斬り結び、とうとう“すめり坂”まで移動していた。そこでついに弟の刀の切っ先が、兄の左耳から首筋にかけて鋭く深く食い込んだのである。この一刀で兄はその場に倒れて絶命した。
ここで我に返った弟は、血を流して動かなくなった兄を見て、愕然とする。喧嘩をするつもりもなく、ましてや斬り倒す気も毛頭なかったのに、兄を殺してしまった。経久は咄嗟に兄を斬った刀で自らの喉を突き、折り重ねるようにして自害して果てたのである。
慌てたのは菅生家の面々である。そして知らせを聞いて駆けつけた福泉寺の者も、事の次第を聞いて狼狽する。とにかく早く葬ろうと“すめり坂”の一番高いところにある、福泉寺所有の林に二人を埋めて弔ったのである。ところが、あまりに慌てていたために、二人とも本来おこなうべき剃髪をせずに葬ってしまったのである。そのため、昼なお暗い林から「すってくりょう、すってくりょう(剃ってくれ、剃ってくれ)」という声が聞こえるようになったという。これが、この塚の名の由来であると言われている。
<用語解説>
◆武蔵七党・菅生氏
横山党を筆頭に、猪股党・児玉党・与野党・村山党・丹党・西党といった武蔵国に土着する中小武士団で、婚姻によって血族となっており、ある程度結束して集団で行動していたとされる。菅生氏は、多摩郡横山庄(現・八王子市)を中心に所領を持つ横山党に連なる一族であるとされている。
また菅生太郎有孝と小倉次郎経久は、あきる野市菅生にある正勝神社の創建に深く関わったとされており、その創建時とされる元暦年間(1184~1185年)には存命であったと考えられる。
◆“ほととぎす塚”の由来
ホトトギスの前世は人間あったという伝説が、各地に流布している。これによると、弟が山芋を取ってきて、兄に美味い部分を食べさせているにもかかわらず、兄が邪推して弟の喉を切って殺した。しかし山芋の不味い部分ばかりが弟から出てきたため、後悔した兄はホトトギスとなって「オトノドツッキッタ(弟喉突っ切った)」と鳴くのだという。
この「兄弟殺し」の構図がそっくりであるため(兄と弟の立場が逆転しているが)、この別名が付いたものと考えられる。また弟の経久が喉を突いて死ぬという流れも、この伝説がだぶってできた可能性がある。
アクセス:東京都あきる野市菅生