専称寺 核割れ梅

【せんしょうじ さねわれうめ】

南北朝時代より、少弐氏は幕府の出先機関である九州探題と対立を続け、さらに幕府の意向を受けた大内氏とも敵対して北九州一帯で領地を巡って争いが絶えなかった。ただ有力守護大名である大内氏の力は強大で、少弐氏は領地を奪われ衰退の一方であった。

ところが京都で応仁の乱が始まると、大内氏は九州へ兵力を割くことが出来ず、その間隙を突いて少弐政資は旧領である筑前・豊前を取り戻し、肥前も手中に収めたのである。それも束の間、乱が収束すると、大内氏は再び九州へ侵攻したのである。

筑前を放棄して肥前に逃げ込んだ政資であるが、大内氏の攻撃は緩むことなく、ついに最後に頼る伝手となったのは、妻を迎えて姻戚となった多久氏であった。多久氏の居城である梶峰城(多久城)に逃げ込もうとした政資であるが、城の門は開かれることはなかった。既に大内氏の手が回っており、多久氏も政資を裏切るしかなかったのである。

政資は城の近くの専称寺に籠もり、辞世の句を詠むと、腰の袋から梅干しを取り出して口にした。そして種を噛み砕き、実を取り出すと、それを地面に叩きつけて「心あらば、我が身の代わりに芽生えて、春ごとに花を咲かせよ」と言い、その場で切腹して果てたのである。

それからしばらくすると、地面から梅の木が生え、花を咲かせるようになった。ただその実の種は何故か最初から割れているものが多く、人はこれを“核割れ梅”と呼ぶようになったという。

現在も専称寺の境内には少弐政資の墓と、その子の資元の墓がある。資元も少弐氏の再興を果たすも、最終的に大内氏によって攻められ梶峰城にて自刃するという数奇な運命に見舞われている。

<用語解説> 
◆少弐氏
少弐氏は大宰少弐の官位から採られた名である(元は武藤氏)。鎌倉時代に鎮西奉行として赴任した名門であり、そのため室町幕府の九州探題を敵視している。その後は九州探題の渋川氏と、大内氏によって攻撃を受けて衰退。政資の代に一時盛り返すが、その自刃後は、旧家臣の庇護を受けてかろうじて命脈を保つ。資元の子である冬尚の代に旧臣であった龍造寺氏によって滅ぼされる。

◆少弐政資
1441-1497。渋川氏・大内氏との戦いを繰り返し、一時は旧領である筑前・豊前・肥前を領有する勢力となる。しかし大内氏の攻勢により勢力を失い、最期は梶峰城近くの専称寺にて自刃。

◆少弐資元
1489-1536。少弐氏16代当主(政資の三男だが、長男は政資自刃直後に自害)。大友氏の庇護を受けて、少弐氏を再興。一時は幕府の仲介で大内氏とも和睦し、肥前守護となる。しかし家臣であった龍造寺氏が台頭、再び大内氏の攻勢が強まると、和睦してほとんどの領地を失う。最期は梶峰城に拠るも持ち堪えられず、自刃する。

アクセス:佐賀県多久市多久町