大念寺
【だいねんじ】
本堂をはじめ、戦後に改築されているため近代的な外観であるが、大念寺の歴史は相当に古い。
開山は慧穏法師で、遣隋使の留学僧として大陸に渡った後に帰国、その直後より中臣鎌足の帰依を受けて建立されたのが始まりとされる。そして斉明天皇2年(656年)に鎌足の夢告によって、長男の定慧を開山として善法寺が建立された。これが大念寺の前身となる。その後、鎌足を葬った地ということで“大織冠廟堂”と呼ばれるようになったが、戦国の世になって衰微。天正年間(1573~1593)になって浄土宗の寺院として再興され、現在に至る。
大念寺の境内には「黄金竹」と呼ばれる、昔から有名な竹が自生している。この竹は全体に黄色みを帯びており、成長するにつれ枝先が枯れていくという変わった特徴を持つ。これには鎌足と定慧にまつわる伝説が残されている。
鎌足は亡くなった後、安威の地に葬られたのであるが、長男の定慧が唐での修行を終えて戻ってくると、多武峰(現在の談山神社)に改葬しようとした。夢枕に父が現れ、改葬を求めたためである。しかし鎌足を慕う安威の民はそれに反対した。そこで定慧はやむなく、父の首だけを多武峰に持っていき葬ったという。そのため、鎌足お手植えであった黄金竹は成長すると、先端部分だけが枯れてしまうようになったとされるのである。
黄金竹はかつては大念寺境内に数多く生えていたという。しかし現在はわずかに一株。一応境内になるが、かなり分かりにくい場所にある(具体的な場所は地図参照)。
<用語解説>
◆定慧
643-666。藤原鎌足の長男。まだ次男(後の不比等)が生まれていない時に出家させるという、異例の事態で僧となる。遣唐使の留学僧として派遣され、多くの教義を学ぶ。帰国したその年に死去。一説では毒殺とされる。
史実では、父よりも先に亡くなっている(鎌足は669年死去)が、上記の伝説では定慧は和銅元年(708年)に唐より帰国し、同7年(714年)に亡くなったということになっている。また僧となった理由についても、定慧自身が天皇の落胤であったとする説や、次男の不比等が落胤であったとする説などがあるが、いずれも確証はない。
◆大織冠
大化の改新の際に制定された、官職の最高位。藤原鎌足のみが授かっていることから、鎌足個人を指す。
アクセス:大阪府茨木市安威