簗瀬八幡平の首塚

【やなせはちまんだいらのくびづか】

昭和6年(1931年)3月に、近くに墓参りに来ていた小学生によって偶然発見された塚である。6世紀頃に造られた円墳の石室付近に、幅1m、長さ2mの穴を掘り、その中に約150人分の頭骨が埋められていたのである。さらに戦後の調査で、積まれた頭骨を覆うように、天明3年(1783年)に噴火した浅間山の噴石があることが分かったため、それ以前に埋められたものであるとされた。また、穴の中からは頭骨以外の骨は見つかっておらず、下顎の部分すらない状態で埋められており、各地にあった頭骨だけを集めて改葬したと考えられたのである。

さらなる頭骨の精査の結果、これらの骨は室町時代を中心とする中世の日本人のものであり、一部には刀創が発見されたという。それらを総合すると、おそらくこれらの骨は戦国時代にこの付近で起こったかなり大きな戦いで死んだ者を葬ったと推測されたのである。

戦国時代にこの地を治めていたのは、関東管領上杉氏に属していた安中氏である。そしてこの一帯が戦乱に巻き込まれたとされるのは、上杉氏が関東を追われ、西から領土拡大のために進出してきた武田氏との戦いが激しくなった頃である。具体的には永禄4年(1561年)に武田氏がこの簗瀬に陣を築いて、安中氏の持つ安中城と松井田城を分断しており、その際にかなりの戦闘が行われたと考えられる。

現在は、塚が発見されて間もなくに建てられたお堂に150人分の骨は安置されており、丁寧に祀られている。

<用語解説>
◆安中氏
戦国時代に碓氷郡を治めていた有力国人。関東管領・上杉憲政が越後に追われ、武田信玄が上野進出を開始すると、国人衆の長野業正を大将として武田氏に抗した。しかし業正が永禄4年(1561年)に亡くなると、翌年には武田氏に臣従。その後は信濃・美濃を転戦する。信玄亡き後も武田氏に仕えるが、長篠の戦いで一族のほとんどを失う。武田氏滅亡後は北条氏に仕えたようであるが、北条氏滅亡後、本流は消滅してしまう。碓氷郡に定住するようになって100年足らずの出来事である。

アクセス:群馬県安中市簗瀬