吉良神社 首洗い鉢

【きらじんじゃ くびあらいはち】

山ノ端町にある若一王子宮の境内に、吉良神社はある。祭神は吉良親実である。

現在では若一王子宮に合祀された形になっているが、明治43年(1910年)に県立高知師範学校医女子寄宿舎の建設によって、隣接する越前町から移転した(現在は跡地に碑が残るが未見)。その地は、吉良親実の屋敷があった場所とされている。

親実は、土佐の戦国大名・長宗我部元親の甥にあたり、しかも元親の娘を妻として義理の息子でもある有力一門衆であった。しかし元親の長男・信親討死を端に発した相続争いで元親の意に反する諫言をおこない、自害を命ぜられる。その自害した場所が、親実の屋敷であった。

現在、吉良神社の祠の前には、自害した親実の首級を洗った手水鉢が残されている。そして恨みを含んで死んだ親実と、その後を追って殉死した7名の家臣は祟り神となって長宗我部家に災いしたとされる。高知では今なおその伝説は“七人みさき”として生きており、大きな事故が起こると「七人みさき様の祟り」とまことしやかに噂されるという。

<用語解説>
◆吉良親実
1563-1588。吉良左京進とも。父は長宗我部元親の弟・吉良親貞。長宗我部家相続争いでは、元親次男の香川親和を推してたびたび諫言し、最終的にそれが原因で元親より自害を命ぜられる(相続は四男の盛親となる)。その祟りは凄まじく、供養しても怪異が収まらないために、遂には吉良神社を建立して神として祀ったという。

◆七人みさき
四国や中国地方に伝わる亡霊。吉良親実の伝説が最も有名であるが、同じ時に自害を命ぜられた比江山親興の一族も七人みさきとして現れたとされる。また海難事故や不慮の事故で亡くなった者が出現する話も多くある。一般的な伝承としては、7人の集団で現れ、祟りによって人を死に至らしめると、その死んだ者が加わり、集団の中の1人が成仏するとも言われる。

アクセス:高知県高知市山ノ端町