牛ヶ首神社
【うしがくびじんじゃ】
かつて神通川下流の左岸一帯は、頻繁に起こる氾濫のために土地が荒れ田畑に適さない土地であった。そこに用水を通して新田を作ろうとしたのは寛永元年(1624年)のことである。八町村善左衛門、下村長左衛門、小竹村久右衛門の3名が加賀藩に開削を願い出ると、藩主の前田利常も石高増を見越して計画以上の用水路開削を命じるなど、官民こぞっての大事業となった。
事業の最大の難所は八ヶ山の切り通し開削であった。工事はなかなか進まず、作業の者の士気を下がっていくばかり。そのような時、事業の責任者となっていた八町村善左衛門の夢枕に神が立ち「牛の首を埋めよ」と告げた。何一つ疑うことなく善左衛門は牛の首を斬り落とすと、夜陰にまぎれて工事現場に赴き、その首を埋めて何食わぬ顔で帰宅したのである。
翌日、工事が始まって間もなく、土の中から牛の生首が掘り出された。動揺す人夫達を尻目に、善左衛門は「これは牛嶽大明神の加護であり、これで工事は成功する」と高らかに宣言した。この言葉に鼓舞された人夫達は作業に励み、ついに難工事を乗り越えたのであった。そしてこの逸話から、完成した用水は“牛ヶ首用水”と名付けられたのである。
用水は寛永10年(1633年)に完成、その後加賀藩から富山藩が独立すると、用水は両藩が管理することになる。さらに富山藩独自で用水が延長され、最終的に明暦元年(1655年)に全長約40kmにも及ぶ用水として全工事を終えた。この用水の完成によって新田が開発され、約4万石の増収となったという。
牛ヶ首神社は、この用水の守り神として加賀藩と富山藩がそれぞれ建てた神明社を合祀して、明治42年(1909年)に出来たものである。
<用語解説>
◆前田利常
1594-1658。第2代加賀藩主。鼻毛を伸ばして暗愚を装うなどの奇行に関する逸話が残されている反面、内政では灌漑事業などの農政に力を注ぎ、藩の発展に寄与している。
◆富山藩
寛永16年(1630年)に前田利常が隠居する際、次男の利次に10万石で分藩して成立(この時に三男の利治に大聖寺7万石も分藩している)。最終的に明治維新まで加賀藩の支藩として存続する。
アクセス:富山県富山市松木