権現神社

【ごんげんじんじゃ】

南北朝時代に小豆島に城を構えていた佐々木(飽浦)信胤は高師秋と対立し、北朝から南朝側へと鞍替えした。そのため貞和3年(1347年)に北朝の細川師氏の総攻撃を受けて、約1ヶ月ほどの抗戦の末に落城となった。この落城で信胤も一旦歴史の記録から姿を消すが、康安2年(1362年)の細川氏一族内の合戦で再び名が登場し、その後消息が分からなくなる。しかし地元では、この落城の折に命を落としたとの伝承が残る。

落城後、島の西へと落ち延びた信胤であったが、浜近くまで来た時に敵襲を受ける。夜更けの戦いで乱戦となったが、剛力で名高い信胤は襲ってきた敵兵をたちまち素手で組み伏せてしまう。しばらく揉み合っていると、主人の危急に気付いた一人の家臣が槍を持って駆けつけた。しかし暗闇のため、組み合っている両人のいずれが主人なのかがはっきりとしない。

「殿は、上か下か」。家臣か呼びかけると、一呼吸おいて「下じゃ」との声。それを聞いた家臣は、一方を組み伏せている上の武者目がけて躊躇なく槍を突き刺した。だが信胤は生来吃音で、家臣の呼びかけに咄嗟に返答出来なかった。その隙を見て敵が機転を利かせて、信胤を刺すように家臣を騙したのである。突き刺してからそれが主人であることに気付いたが、既に遅し。信胤は奸計によって落命したのである。

村人はこの無念の死を遂げた城主を憐れみ、“権現様”と称して社を設けた。これが現在の権現神社の起こりである。現在でも祭礼の日や年始の参拝時には、咄嗟に返答出来なかったために死んだ信胤の無念を思って、声を発さずに参詣する「無言参り」をおこなう習慣が残っている。

<用語解説>
◆佐々木(飽浦)信胤
生没年不詳。元は備前国児島郡飽浦の住人であり、細川氏の部将として足利尊氏についていた。しかし高師直の従兄弟である高師秋と女性(妻となるお才の局)を巡るいさかいから南朝方に離反し、小豆島を本拠とする。

アクセス:香川県小豆郡土庄町長浜