熊ノ平駅殉難碑
【くまのたいらえきじゅんなんひ】
日本の幹線鉄道の中で最も難所とされてきたのが、信越本線の横川~軽井沢間の約11kmである。中山道の碓氷峠を越える険峻な山間に電車を通す事業は困難を極め、この区間の工事だけで約500名もの殉職者を出したという。そして他の区間から遅れること約5年、明治26年(1893年)にようやく開通する。
この区間が難所である最大の理由は、66.7‰という日本一の勾配にあった。そのため開通当初より、ドイツの高原鉄道で使われだしたアプト式を採用した。しかし当時の蒸気機関車ではそれでもスムーズに走らせることが出来ず、この区間を75分(時速9km)で運行させていた。そのため途中で水や石炭の補給が必要となり、設置されたのが熊ノ平の補給所であった。やがて明治39年(1906年)には熊ノ平は停車場(駅)に昇格。その後も電化に伴って変電所が設置されるなど、峠越えの平坦地として役割を果たすことになる。
小駅であったが、鉄道の難所であるためにかなり多くの職員が常駐していた熊ノ平駅を、突然悲劇が襲った。昭和25年(1950年)6月8日夜半、碓氷峠一帯に降り続いていた雨のために、駅構内にあるトンネル付近でかなりの土砂崩れが発生した。人的被害はなかったが、線路が埋まってしまい、夜を徹して復旧作業が進められることとなった。そして翌9日の早朝6時、昨夜の土砂崩れを起こした地点のさらに上方部が崩落し、倍以上の土砂が作業中の職員を直撃した。さらに土砂は職員官舎を飲み込み、押し潰した。この事故によって、作業員38名と職員の家族12名が犠牲となったのである。この事故による犠牲者捜索と復旧作業は難航し、旅客車運行は当月23日になってから、そして最後の遺体発見はその前日と記録されている。
平成9年(1997年)、新幹線が開通することで廃線となった碓氷峠の鉄道区間であるが、現在は歴史的な観光施設として一部が開放されている。熊ノ平駅も昭和41年(1966年)に全線複線化に伴って駅から信号所へ降格されているが、変電所などは原形をほぼ留めたまま残されている。その旧駅の敷地内に、崩落事故の犠牲者を慰霊する殉難碑が建っている。事故の一周忌にあわせて、国鉄職員らの浄財によって造られたものである。殉職者を慰霊する碑であるが、乳飲み子を抱える若い母親という母子像となっている。これは土砂によって押し潰された職員官舎から、生まれて間もない赤ん坊を抱えたまま息絶えていた母親が見つかっており、それをモチーフにして作製されたと言われている。
アクセス:群馬県安中市松井田町坂本