増田神社

【ますだじんじゃ】

祭神は増田敬太郎巡査。日本でも唯一、警察官を神として祀っている神社である。

かつての高串地区は交通の便が悪く、陸の孤島と呼ばれるような土地であった。明治28年(1895年)7月、この高串ではコレラが猛威を振るっており、既に死者も複数出ているという状況であった。当時の公衆衛生の管轄は警察であり、応援要請を受けた県警本部が派遣したのが、巡査としての研修を終えたばかりの増田巡査だったのである。

7月21日に高串に赴任した増田巡査は、早速コレラ患者宅周辺の消毒から、死亡した患者の遺体を運ぶなどの作業を始めたのである。その活動はほぼ不眠不休のものであり、増田巡査も徐々に体力を奪われていったようである。そして23日には、ついに自らがコレラに感染、翌24日の15時頃にそのまま息を引き取ったのである。赴任してわずか4日間の出来事であった。その臨終の際の言葉は「高串のコレラは私があの世に全部背負っていきます。これからも村を守護します」であり、実際、増田巡査の死後コレラは急速に収まり、発症する者がいなくなったという。

殉職した増田巡査に対して、高串地区人々はその献身に感謝し、その遺徳を偲ぼうと遺骨の分骨を申し入れ、それを秋葉神社の境内に埋葬して墓碑を建てた。これが増田神社の始まりである。さらに墓碑を覆うように社殿が建てられ、最終的に秋葉神社が増田神社に吸収される形で、現在のような形態になっているらしい。

高串地区の住民に信奉されていた増田神社が注目を浴びるようになったのは、大正12年(1923年)頃である。増田巡査のかつての所属先であった唐津署の警部補がたまたま増田神社の例祭を見に来たことがきっかけである。殉職した若い警官を集落の人間が祀っているという噂は知っていたが、ここまで盛大な祭となっていることを知った県警察関係者は、“命を賭して職務を遂行した”増田巡査を顕彰し、その功績を記した冊子を県下の全警察官に配布したのである。この時に用いられたのが“警神”という言葉であり、「神となった警察官」という認識が一気に広まったと言える。現在でも増田神社の例祭には、佐賀県警音楽隊が参加しているという。

<用語解説> 
◆増田敬太郎
1869-1895。熊本県出身。郷里で土木工事に従事したり、同郷の者と共に北海道開拓に乗り出すなどの事業をおこなっていた。その直後に「人の役に立つことがしたい」という希望から、佐賀県警の巡査を志願する。3ヶ月掛かる教習を10日間で終了させ、巡査を拝命。最初の赴任地である高串にてコレラの感染により殉職。享年25才。

アクセス:佐賀県唐津市肥前町高串