飯盛山 白虎隊士の墓
【いいもりやま びゃっこたいしのはか】
慶応4年(1868年)正月に京都で始まった戊辰戦争は、やがて東へと戦線は移り、江戸城開城と上野山の戦いを経て、いよいよ5月に奥羽越列藩同盟と新政府軍との衝突となった。この戦闘は、圧倒的な火力を擁する新政府軍が徐々に制圧を開始、7月末には同盟は総崩れの状態となり、会津藩は直接新政府軍の総攻撃を受けることになる。8月21日の母成峠の戦いである。最も手薄であった峠を急襲された会津軍は敗走、僅か1日で藩境を突破されることとなる。さらに翌日には新政府軍は猪苗代城を攻略、そのままの勢いで若松城を目指して進撃する。
この怒濤の攻めに対して、会津軍は主力を欠いたまま防戦に努める。藩主の松平容保は滝沢本陣まで出陣して救援部隊を指揮するが、新政府軍の勢いは止まらず、ついには藩主護衛の任に当たっていた白虎隊士中二番隊も救援部隊として出陣することとなった。本来は最前線で戦闘に参加するはずのない彼らは、非常事態であるために最も過酷な戦闘の場に狩り出されたのである。そして戸の口原の戦いで白虎隊士中二番隊は大打撃を受けて潰走する。42名あった隊士もちりぢりとなり、23日ようやく飯盛山にたどり着いた時には20名の隊士だけとなっていた。そしてそこで見たものは城下に上る黒煙であった。それを城の陥落と見た少年たちはその場において自害、20名中19名が死んだ。
飯盛山の山腹に、この地で命を絶った19名の墓がある。その脇には白虎隊として他の地で亡くなった者の墓、会津の攻防戦で亡くなった婦女子の慰霊碑、その他白虎隊の精神を賞賛するイタリア・ドイツから戦前に寄贈された碑などが置かれている。
白虎隊の悲劇は、唯一の生き残りである飯沼貞吉の証言によって広く世に知られるようになったのだが、彼がその真相を語ったのは晩年の時、しかも一部の史家のみだったと言われる。そして後に同地に墓碑が建てられるが、19名とは離れた場所に単立している。
<用語解説>
◆白虎隊
新政府軍との戦いに備え編成された、16~17歳の武家の少年による部隊(青年層は朱雀隊、壮年層は青龍隊、老年層は玄武隊となる)。身分によって、士中隊・寄合隊・足軽隊にさらに分かれる。悲劇の主人公となる士中二番隊は42名で編成されていたが、戦いによってちりぢりとなり、最終的に飯盛山までたどり着いて自刃した者は20名である。他の隊士の中には無事に城に戻ってきた者もある。
◆奥羽越列藩同盟
新政府軍によって朝敵とされた会津・庄内両藩の赦免嘆願を発端とした、北日本31藩(会津・庄内を除く)による軍事同盟。輪王寺宮を盟主とし、連合国家的な形態を取って、新政府軍と対立した(既に江戸幕府は大政奉還をおこなっており、旧幕府軍というカテゴリーとは一線を画するものである)。
アクセス:福島県会津若松市一箕町八幡