七霊の滝
【しちろうのたき】
史実では、平家は寿永4年(1185年)に壇ノ浦で滅びたことになっている。しかし全滅したわけではなく、一部は生き残り、九州へと落ち延びている。一団は大宰府を目指したが行く手を阻まれ、さらに肥後方面へ向かったようである。しかし源氏の追及の手は緩まず、尾島の合戦を経て、最後の合戦地とされる要川で戦いに臨む。既にその時には名のある武将はなく、この戦いで平家の一団は散り散りとなってしまうのである。
この最後の一団の中に、7人の女官があった。彼女らは戦地を脱出し、要川を遡り、待居川に沿ってさらに山奥へと逃げていった。そして滝壺のあるところに辿り着いたが、もはやこれ以上逃げてもいずれは源氏の追っ手に捕まるであろうと悲観し、ならばと7人は滝壺に身を投げて亡くなったのである。
その後村人はその亡骸を丁寧に葬り、滝壺のそばに社を建てて祀った。この滝壺は女官が身を投げたことから“七霊の滝”、社は“七霊宮”と呼ばれるようになった。そして亡くなった女官は源氏を恨んで鯰に化身した言われ、この辺りの集落では鯰を食べない風習があるという。また女官の木像をこの滝壺で洗い清めて雨乞いをすると必ず雨が降るという伝承も残る。
<用語解説>
◆尾島の合戦
源平の合戦があったとされ、平家方に多数の死者が出たとされる。しかし現在は、平宗清が建てたとされる「一之塚」があるが、どのような合戦であったかの詳細は不明。
◆要川の合戦
尾島の合戦で敗れた平家方が、近在の清水寺の僧兵らの加勢を得て源氏と戦ったとされるが、詳細は不明。この合戦でしばらく川が血で染まったという伝承が残されている。また合戦のあったとされる場所は公園化されている。
アクセス:福岡県みやま市山川町甲田